デジタル大辞泉
「常陸山谷右衛門」の意味・読み・例文・類語
ひたちやま‐たにえもん〔‐たにヱモン〕【常陸山谷右衛門】
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ひたちやま‐たにえもん‥たにヱモン【常陸山谷右衛門】
- 明治・大正の力士。第一九代横綱。本名市毛谷右衛門。茨城県出身。明治二四年(一八九一)出羽海部屋に入門。御西山の名で初土俵。同二七年師名をついで常陸山となる。同三六年三〇歳で横綱免許。優勝七回。大正三年(一九一四)引退、年寄五代目出羽海を襲名。明治七~大正一一年(一八七四‐一九二二)
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常陸山谷右衛門
没年:大正11.6.19(1922)
生年:明治7.1.19(1874)
明治期の力士。19代横綱。水戸藩士の子として茨城県水戸に生まれる。本名市毛谷。代々市毛家は藩の弓術指南役を務めた。生まれながらにして骨格,容貌ともに非凡。東京専門学校(早稲田大)受験のため上京したが,明治24(1891)年春,叔父内藤高治のすすめで同郷の先輩出羽海運右衛門の弟子となる。幕下時代にスランプに陥り,巡業中に脱走して大坂相撲に加わる。30年東京に帰参した時はすでに大関の力ありといわれた。32年入幕,34年大関,36年梅ケ谷藤太郎(2代)と共に横綱に推される。取り口は性格同様に豪快無比。必ず受けて立ち,相手に存分に取らせてからおもむろに振り飛ばすか,無造作に吊り上げて運ぶという文字通りの横綱相撲をみせた。174cm,146kg。幕内通算成績150勝15敗22分け2預かり,優勝7回,32連勝がある。好敵手梅ケ谷と共に梅・常陸時代と呼ばれる角界の黄金期をもたらし,この人気を背景に42年両国国技館が建設された。40年門弟3人と共に渡米し,ホワイトハウスにルーズベルト大統領を訪ねて土俵入りを披露し,親善外交の実をあげた。大正3(1914)年引退して出羽海(5代)を襲名,2横綱2大関のほか数多くの幕内力士を育て,角界一の大部屋を築く。「力士は芸人に非ず,武士である」と弟子を指導し,力士の社会的地位向上に努めて「角聖」「御大」と呼ばれた。酒豪,艶福家としても知られた。『相撲大鑑』(1914)を著した。
出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報
常陸山谷右衛門 (ひたちやまたにえもん)
生没年:1874-1922(明治7-大正11)
明治・大正期の力士。19代横綱。茨城県水戸に生まれた。家は代々藩主の弓・剣道の師範。本名は市毛谷。中学3年のとき進学のため上京したが,勧められて同郷出羽海の門下となり,1891年御西山で初土俵,2年後師名の常陸山と改めた。幕下のとき一時脱走したが,97年帰参してから頭角を現し,十両を1場所で突破して99年1月入幕。1901年大関,03年梅ヶ谷藤太郎とともに横綱免許を受けた。身長174cm,体重146kgの堂々たるアンコ型で,相手の差し手を決めて寄り切る豪放な取口で知られた。梅ヶ谷と並んで〈梅・常陸〉時代といわれる相撲黄金時代を築き,この人気から両国国技館が建てられた。14年に引退,幕内16年31場所中負けはわずか15個,世に〈角聖〉といわれた。師の出羽海を継いで筆頭取締にあげられ,相撲界の向上に尽くすとともに角界随一の大部屋を率いて大錦,栃木山守也,常ノ花の3横綱を育てた。
執筆者:池田 雅雄
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常陸山 谷右衛門
ヒタチヤマ タニエモン
明治・大正期の力士(第19代横綱)
- 生年
- 明治7年1月19日(1874年)
- 没年
- 大正11(1922)年6月19日
- 出生地
- 茨城県水戸市城東
- 本名
- 市毛 谷
- 別名
- 旧シコ名=御西山,年寄名=出羽ノ海(デワノウミ)
- 経歴
- 明治24年出羽海部屋に入門、25年夏場所初土俵(シコ名・御西山)。27年常陸山を襲名し、32年春場所入幕、34年大関、36年夏場所に全勝優勝して梅ケ谷とともに横綱となり、“梅・常陸時代”を築く。入幕後の成績は、32場所150勝15敗22分で勝率は9割を超える。優勝7回(優勝相当6回を含む)、32連勝がある。40年力士として初めて欧米視察に出かけルーズベルト大統領に会見し、大相撲の紹介につとめた。大正3年引退後は年寄出羽ノ海親方として、大錦・栃木山・常ノ花の3横綱をはじめ多くの名力士を育成した。“角聖”“御大”と呼ばれた。174センチ、146キロ。
出典 日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」(2004年刊)20世紀日本人名事典について 情報
常陸山谷右衛門
ひたちやまたにえもん
(1874―1922)
第19代横綱力士。本名市毛で、幼名は谷。現在の水戸(みと)市宝鏡院門前町に生まれ、中学3年のとき出羽海(でわのうみ)部屋に入門。1903年(明治36)6月梅ヶ谷とともに横綱を免許され、「梅・常陸時代」といわれる相撲(すもう)興隆期を築き、天下を二分するその人気は8年後に両国国技館を建設する要因となった。177センチメートル、146キログラムの体格で、取り口は豪放な極(き)め出しを得意とし、攻守に堅実な横綱相撲であった。入幕以来40歳で引退するまでの16年間に、負け星はわずか15にすぎず「明治の角聖」といわれた。14年(大正3)出羽海を継いで取締に就任、社会人としても一流の識見と手腕をもって、力士の品格向上を図った。その後、大錦(おおにしき)、栃木山(とちぎやま)、常ノ花の3横綱をはじめ、三十数人の三役・幕内力士を育成して、一代で出羽海部屋を角界随一の大部屋に発展させた。48歳で病死したが、初の相撲協会葬をもって送られた。
[池田雅雄]
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常陸山谷右衛門 ひたちやま-たにえもん
1874-1922 明治-大正時代の力士,親方。
明治7年1月19日生まれ。もと水戸藩士の子。明治24年出羽海部屋に入門。32年入幕,34年大関,36年19代横綱となる。2代梅ケ谷と「梅・常陸時代」をきずき,角聖といわれた。大正3年41歳で引退。150勝15敗22分け2預かり。年寄出羽海を襲名し,大錦,栃木山,常ノ花の3横綱をだすなど,角界随一の大部屋にそだてた。大正11年6月19日死去。49歳。茨城県出身。本名は市毛谷(たに)。
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「常陸山谷右衛門」の意味・わかりやすい解説
常陸山谷右衛門【ひたちやまたにえもん】
力士。本名市毛(いちげ)谷右衛門。水戸の出身。1891年初土俵。1903年2代梅ヶ谷藤太郎とともに19代横綱となり,明治の相撲全盛期を築いた。優勝7回。1914年引退,出羽海部屋を継ぎ多くの力士を育成した。身長174cm,体重146kgの堂々たるアンコ型力士。
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常陸山 谷右衛門 (ひたちやま たにえもん)
生年月日:1874年1月19日
明治時代の力士(第19代横綱)
1922年没
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