幡随意(読み)ばんずいい

精選版 日本国語大辞典 「幡随意」の意味・読み・例文・類語

ばんずいい【幡随意】

江戸初期の浄土宗の僧。字は向阿、号は白道・演蓮社智誉。鎌倉光明寺で学び、のち川越蓮馨寺の感誉存貞の門にはいる。天正三年(一五七五以後、各地に遊歴して諸寺の開山となり、慶長六年(一六〇一)京都百万遍知恩寺に住した。宮中で法を説き、また徳川家康尊信を得て江戸に幡随院開創、同一七年には幕命を受けて九州に赴きキリシタン信徒の改宗に努めた。天文一一~慶長二〇年(一五四二‐一六一五

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「幡随意」の意味・わかりやすい解説

幡随意
ばんずいい
(1542―1615)

近世初期の浄土宗の学僧。演蓮社智誉向阿(えんれんじゃちよこうあ)と号し、字(あざな)を白道(びゃくどう)という。相模(さがみ)国(神奈川県)藤沢の生まれで、姓は上宮(うえみや)(または川嶋(かわしま))。11歳で出家し、鎌倉光明寺(こうみょうじ)の智聡(ちそう)、武蔵(むさし)国(埼玉県)川越蓮馨寺(れんけいじ)の存貞(ぞんてい)(1522―1574)に就いて内外の典籍ことに宗学を学び、上野(こうずけ)国(群馬県)館林(たてばやし)善導寺(ぜんどうじ)に住した。諸国への巡教、諸寺院建立、宗侶(しゅうりょ)の養成、また幡随意流の伝法(でんぽう)を創始するなど、教学、布教両面の振興に尽力した。1608年(慶長13)以前に江戸・神田に幡随院(新知恩寺(しんちおんじ))を開き、1613年には幕府の命により長崎に下向し、キリシタンの糾明にあたった。そのとき長崎に開かれた寺が大音寺(だいおんじ)、白道寺(びゃくどうじ)である。

[阿川文正 2017年9月19日]

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「幡随意」の意味・わかりやすい解説

幡随意
ばんずいい

[生]天文11(1542)
[没]元和1(1615).4.
江戸時代初期の浄土宗僧。幼くして出家,鎌倉の光明寺で学を修め,次いで川越の蓮馨寺の感誉存貞の門に入った。天正3 (1575) 年諸国を行脚,館林に善導寺を開き,慶長6 (1601) 年京都百万遍知恩寺に晋山。徳川家康の請いによって江戸駿河台に幡随院創設。同 17年幕命によりキリシタンを教化。晩年は紀伊の万松寺に退いた。彼の法流は幡随意流と呼ばれ,開創の寺院,門弟の数が非常に多い。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「幡随意」の解説

幡随意 ばんずいい

1542-1615 織豊-江戸時代前期の僧。
天文(てんぶん)11年10月15日生まれ。浄土宗。聖伝(しょうでん),存貞にまなぶ。慶長6年(1601)京都の知恩寺33世となり,8年(一説に15年)江戸神田に新知恩寺(幡随院)をひらく。のち長崎でキリシタンの改宗につとめた。慶長20年1月5日死去。74歳。相模(さがみ)(神奈川県)出身。俗姓は上宮。字(あざな)は白道。号は演蓮社智誉向阿。

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367日誕生日大事典 「幡随意」の解説

幡随意 (ばんずいい)

生年月日:1542年10月15日
安土桃山時代;江戸時代前期の浄土宗の学僧
1615年没

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