喜多院(読み)キタイン

デジタル大辞泉 「喜多院」の意味・読み・例文・類語

きた‐いん〔‐ヰン〕【喜多院】

埼玉県川越市にある天台宗の寺。山号は星野山、院号は仏地院。天長7年(830)円仁の開創と伝える。永仁年間(1293~1299)尊海が中興、関東天台宗の中心となる。慶長年間(1596~1615)天海家康の保護を受けて復興。川越大師

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精選版 日本国語大辞典 「喜多院」の意味・読み・例文・類語

きた‐いん‥ヰン【喜多院】

  1. 埼玉県川越市小仙波にある天台宗の寺。山号は星野山。無量寿寺と称する。天長七年(八三〇)円仁の創建と伝えられる。一三~一六世紀の間、関東天台宗の総本山として栄えた。徳川家康が再興。北院。川越大師。

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日本歴史地名大系 「喜多院」の解説

喜多院
きたいん

[現在地名]川越市小仙波町

新河岸川右岸、中院の北西に位置し、もと北院とも書いた。星野山と号し、天台宗。本尊阿弥陀如来。前身は中院同様尊海によって再興された無量寿むりようじゆ(仙波談所)の子院であった仏蔵ぶつぞう(仏蔵院)で、「天台円宗四教五時名目」の奥書に、永享一一年(一四三九)七月一二日「武州仙波仏蔵坊談所書之 隆海」とみえる。ある時期までは中院・北院は優劣なく並存していたようであるが、永禄元年(一五五八)中院の芸が京都曼殊まんしゆ院門跡覚如法親王から京都青蓮しようれん院流の法灯相続者と認められ、関東天台の本山となると、北院より優位に立ち、同一一年には喜多院住持仙海が中院宛に証状を提出している(「喜多院仙海証状」中院文書)。しかし文禄二年(一五九三)に本末関係をめぐり両院間の確執が起こったようで、同年に両院末代法度、同三年に両院定書と、真言・護摩・灌頂などの執行について両院間で規定している(同文書)

江戸時代初め当院の天海が徳川家康から信任を得て、慶長一七年(一六一二)には当院に寺領三〇〇石の寄進を申出られるほどになると(「徳川実紀」同年四月一九日条)、中院との地位が逆転した。同年八月家康は川越藩主酒井忠利を奉行に命じ当院を修造させ、翌一八年に慈恵堂、同一九年に大堂を建立させた(「星野山御建立記」喜多院文書)。この間同一八年二月喜多院に関東天台宗法度を下し(御当家令条)、本山比叡山延暦寺をしのぐ関東の天台宗管轄の全権を保証した。

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「喜多院」の意味・わかりやすい解説

喜多院
きたいん

埼玉県川越(かわごえ)市小仙波(こせんば)町にある寺。天台宗に属し、星野山(せいやさん)無量寿寺喜多院と称する。北院、川越大師ともいう。830年(天長7)慈覚(じかく)大師(円仁(えんにん))の草創。1296年(永仁4)尊海法師が顕密(けんみつ)の道場として関東天台580寺余を付属させ、1301年(正安3)坂東(ばんどう)の天台本山の勅許を賜った。1537年(天文6)北条氏綱(うじつな)による川越城陥落のときの兵火で堂宇および典籍はことごとく焼失した。1599年(慶長4)天海(てんかい)が第27世となり、徳川家康の保護のもとに500石、4万8000坪(約1584ヘクタール)の地が寄進され、後陽成(ごようぜい)天皇より東叡山(とうえいざん)の号を賜った。しかしこの山号はのちに上野の寛永寺に移り、星野山の山号に戻った。中院(なかいん)を中心として、南院、北院の3院があり、北院はのち喜多院と改めた。1612年(慶長17)より3か年間に堂塔伽藍(がらん)が復興されたが、38年(寛永15)の川越大火ですべてを焼失した。川越藩主堀田正盛(ほったまさもり)が造営奉行(ぶぎょう)を命ぜられ、正盛は同年松本への転封後も再建に力を尽くし、家光(いえみつ)の命で江戸城内紅葉山(もみじやま)の別殿を移築、さらに諸堂を再建した。家光誕生の間、春日局(かすがのつぼね)化粧間、山門、慈眼堂など、慈慧(じえ)大師堂を除く現在の建物は国の重要文化財。寺宝は、『職人尽絵(しょくにんづくしえ)』(狩野吉信(かのうよしのぶ)筆、桃山時代)、宋版一切経(そうばんいっさいきょう)などの国の重要文化財のほか、『三十六歌仙絵額』(岩佐又兵衛筆)、五百羅漢石仏など数多い。隣にある東照宮は天海が創建したもので、所有の『十二聡鷹絵額(じゅうにそうたかえがく)』(狩野探幽(たんゆう)筆)は有名。

[中山清田]


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改訂新版 世界大百科事典 「喜多院」の意味・わかりやすい解説

喜多院 (きたいん)

埼玉県川越市にある天台宗の寺。星野山と号し,北院,川越大師ともいう。830年(天長7)に慈覚大師が興し無量寿寺の号を賜ったといわれる。尊海僧正を中興となし,中世には〈仙波談所〉として関東天台宗の中心道場となり,学徒の養成に当たっていた。1537年(天文6)兵火のため堂宇焼失したが,99年(慶長4)天海が住職につくと,徳川家康の知遇を受けて大いに復興させた。朱印700石を有し,現存の建造物のうち,客殿,書院,庫裏,山門,慈眼堂などは江戸初期の建立で重文。また狩野吉信画《職人尽絵屛風》は同時期の風俗画として貴重である。
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百科事典マイペディア 「喜多院」の意味・わかりやすい解説

喜多院【きたいん】

川越大師とも。埼玉県川越市小仙波町にある天台宗の寺。円仁の草創という。13世紀末尊海が中興し,関東天台宗の中心となる。北条氏の川越攻略で焼失したが,天海が住して復興。数度の火災ののち,1638年江戸城紅葉山の別殿を移築,山門,客殿,書院等が重要文化財に指定されている。所蔵の《職人尽絵》は江戸初期風俗画として著名。
→関連項目川越[市]天海

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「喜多院」の解説

喜多院
きたいん

北院とも。埼玉県川越市小仙波町にある天台宗の寺。星野山無量寿寺と称し,通称川越大師。寺伝によれば830年(天長7)円仁の創建。1296年(永仁4)尊海(そんかい)が仏蔵房(北院)・仏地房(中院)を設けて中興し,関東天台の中心となった。1537年(天文6)兵火により焼失し,99年(慶長4)天海が住持となり,徳川家康の後援をうけて復興し,中院に代わって北院が中心となった。朱印地700石,関東八檀林の一つとして栄え,後陽成天皇から東叡山の山号を下賜され(のちに江戸上野寛永寺に譲る),南隣には東照宮が建立された。1638年(寛永15)の川越大火による焼失後に建立された客殿・書院・庫裏のほか,狩野吉信画「紙本着色職人尽絵」,宋版一切経は重文。

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世界大百科事典(旧版)内の喜多院の言及

【天海】より

…77年(天正5)には奥州会津の蘆名(あしな)氏のもとに移り,90年豊臣秀吉の小田原の陣に赴き,秀吉に従った。この年常陸不動院を復興,99年(慶長4)武蔵国仙波喜多院に入り,ついで下野の宗光寺に入った。天海の令名をきいた徳川家康は,1607年比叡山の探題奉行に任命,このとき,東塔の南光坊に住んでいたので,のちに南光坊天海と呼ばれた。…

※「喜多院」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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