湯山村(読み)ゆのやまむら

日本歴史地名大系 「湯山村」の解説

湯山村
ゆのやまむら

[現在地名]松山市米野町こめのまち大井野町おおいのまち東川町ひがしがわまち川の郷町かわのごうまち福見川町ふくみがわまち河中町かわなかまち水口町みなくちまち青波町あおなみまち藤野町ふじのまち玉谷町たまたにまち湯山柳ゆやまやなぎ宿野町しゆくのまち末町すえまち杉立町すぎたてまち食場町じきばまち上高野町かみたかのまち・高野町

松山市域の東北部を占める山村。東は越智おち竜岡りゆうおか(現越智郡玉川町)、西は溝辺みぞのべ東野ひがしのの二村、南は小屋峠こやのとう村、北は風早かざはや九川くがわ(現北条市)上総かんさ神次郎じんじろうの三村および伊台いだい村に接する。村域は高縄たかなわ山塊の南斜面と石手いして川の水源およびその上流渓谷の大部分にあたり、ほとんど山地である。東にみずとうげ(八七八メートル)があって石手川の源泉となり、北方に北三方きたさんぽうもり(九七八メートル)土居どいもり(九〇九メートル)、東南方に南三方みなみさんぽうもり(一四七四メートル)明神みようじんもり(一二一七メートル)などの諸峰が重畳している。これらの諸渓谷を流れる香溜こうため檜皮ひはだ成畑なりはた加入道かにゆうどうの諸川は村を東北から西南へ流れて、石手川に注ぐ。人家および田畑は石手川の本支流に沿って存在するにすぎない。慶安元年伊予国知行高郷村数帳(一六四八)温泉おんせん郡の項に「湯之山村 松林有、柴山有、小川有」とある。


湯山村
ゆやまむら

[現在地名]福部村湯山

海士あもう村の西、湯山池を挟んで南北に集落があり、南を山湯山やまゆやま、北を浜湯山はまゆやまと称した(因幡志)。浜湯山を本村とする。山湯山は邑美おうみ覚寺かくじ(現鳥取市)から山越えしてくる但馬往来山道通に、浜湯山は邑美郡浜坂はまさか(現同上)から多鯰たねヶ池北岸を回って東進する同往来中道通に沿い、浜湯山北側の海岸線には同往来の灘通が東西に走る。天正二年(一五七四)六月一〇日の田公高次所領目録(「藩中諸家古文書纂」岩国徴古館蔵)に「五十石 ゆやま」とみえる。藩政期の拝領高は四八三石余、本免は四ツ六分。藪役銀二〇匁七分余・山役米五石余を課されており(藩史)、神戸氏の給地があった(給人所付帳)。「因幡志」によれば家数六五で、産物は鯉・鮒・・鰡・・小蝦・菱・多禰池坂鳥。安政五年(一八五八)の村々生高竈数取調帳では生高六二六石余、竈数は六六(うち浪人・示番各一)

享保年間(一七一六―三六)に始まる和田家の湯山池開発や、文政年間(一八一八―三〇)と万延―文久年間(一八六〇―六四)の半官半民の埋立事業により、一〇〇石近い村高の増加があった(「在方諸事控」、「御新田部屋御用日記」県立博物館蔵など)


湯山村
ゆやまむら

[現在地名]水上村湯山

球磨川支流で、市房いちふさ山を水源とする湯山川に沿って集落が点在する。湯山川をさかのぼった湯山峠を越えると東は日向国椎葉山しいばやま(現宮崎県東臼杵郡椎葉村)、北は江代えしろ村、西は球磨川を隔てて岩野いわの村と接する。鎌倉時代には豊富五〇〇丁に含まれていたといわれる。天正一〇年(一五八二)いわゆる猫寺騒動により、無実の罪で殺害された普門ふもん(湯前町の→普門寺跡五世盛誉は、湯山地頭湯山右京宗豊の次男で(南藤蔓綿録)、当時この地は湯山氏の支配下にあった。

慶長国絵図に「ゆのまへ内 湯山やしき」とあり、石高が記されず、湯山は湯前ゆのまえ(現湯前町)領内に属していたと思われる。


湯山村
ゆやまむら

[現在地名]庄川町湯山

湯谷ゆだに村の北にあり、庄川東岸の北東鉢伏はちぶせ山へ至る道の入口に位置する。里山さとやま七ヵ村の一つ。元和五年(一六一九)の家高新帳に「ゆ山」とあり、金屋組に属し役家数九。正保郷帳の高六二石余、田方二反・畑方三町九反余。寛文一〇年(一六七〇)の村御印では草高七五石・免七ツ三歩、小物成は山役九三匁・蝋役一匁・漆役一匁(三箇国高物成帳)。役家数は延宝四年(一六七六)には一一(「礪波郡村肝煎給米図り帳」川合家文書)。元禄一二年(一六九九)には家数二一で、当村肝煎与兵衛は湯谷村肝煎も兼ねている(「礪波郡村々肝煎扶持米図り帳」同文書)。文化七年(一八一〇)の礪波郡村々諸商売品調理書上帳(井波町立図書館蔵)には紙漉がみえる。


湯山村
ゆやまむら

[現在地名]賀陽町湯山

田土たど村の南にあり、宇甘うかい川の支流湯山川と吉川よしかわ川の谷沿いに神原こうばら清水きよみず茶屋ちやや極楽寺ごくらくじしもはら大岩おおいわなどの集落がある。寛永備中国絵図に「田戸」(田土)の内として村名がみえる。正保郷帳にみえる下田土村に含まれたとみられ、当村にあたる枝村として下ヶ原村・神原村・湯山村・清水村がみえる。正徳四年(一七一四)の備中一国重宝記には二筆に分けて記され、高四二七石余と一八九石余。「備中村鑑」でも上湯山村(高五四三石余)と下湯山村(高二七〇石余)の二村で記され、近世後期上下に分村したことが知られる。領主の変遷は舞地まいじ村に同じ。明治七年(一八七四)上下両村が合併して再び湯山村となった。


湯山村
ゆやまむら

[現在地名]天瀬町湯山

大鳥おおとり村の東、玖珠くす川右岸に位置する。「いやま」とも。慶長六年(一六〇一)の予州替地御知行所目録(佐伯藩政史料)に中山とみえるのが当村と考えられ、高三七六石余。同七年の玖珠郡日田郡御蔵入目録(同史料)では柚木村(柚野木村)と併記されているが、同年の日田郡・玖珠郡御預米帳(同史料)には湯山村とあり、柚木村と同じく五郎左衛門が大豆三二石余・米五石余などと記載されている。正保郷帳に村名がみえ、田高一二六石余・畑高二五〇石余で、五馬いつま庄に属し、日損所とある。寛文四年(一六六四)の小川代官支配高帳(長野家文書)では免一ツ七分六厘で、永荒一六四石余に及んだ。


湯山村
ゆやまむら

[現在地名]松之山町湯山

南西は湯本ゆもと村、北は浦田口うらだぐち村に接し、村内を越道こえどう川の支流が東流する。正保国絵図に高六九石余。天和三年郷帳では高六一石二斗余、反別田四町二反余・畑屋敷二町五反余・山林九反余・青苧畑三反余で、漆木五本、家数二三。安永九年(一七八〇)新田検地では高二〇石余。明治五年(一八七二)の戸数七七。耕地は居村の西方、湯本村・浦田口村兎口うさぎぐちに接する山に向かった地域に多く開ける。青苧畑も多く今日も黒土の焼畑跡が各所にみられる。鎮守松苧まつお神社境内には坂上田村麻呂が愛馬をつないだと伝える松之山の大ケヤキ(国指定天然記念物)がある。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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