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中国の清(しん)朝最後の皇帝(宣統帝、在位1908~12)、のち「満州国」皇帝(康徳帝、在位1934~45)。姓は愛新覚羅(あいしんかくら)。満族。光緒(こうちょ)帝の弟醇(じゅん)親王載灃(さいほう)の子。1908年、3歳にならずして第12代皇帝に即位、宣統帝と称した。辛亥(しんがい)革命の結果、12年退位、そのまま北京(ペキン)の故宮に住んでいたが、24年、馮玉祥(ふうぎょくしょう/フォンユイシヤン)のクーデターによって北京を追われ、日本の援助もあって天津(てんしん/ティエンチン)の日本租界に閑居した。31年(昭和6)「満州事変」に際して日本軍にひそかに連れ出され、32年「満州国」執政、34年その「皇帝」となった。翌年、日本を訪問、日本の皇室と兄弟の契りを結ぶ虚構がつくりだされ、その結果「首都」新京(長春)に神道(しんとう)による「建国大廟(たいびょう)」が建てられた。40年、第2回訪日。45年「満州国」崩壊とともに退位を宣言し、日本に逃れる途中、当時のソ連軍に捕らえられて、ハバロフスクに抑留された。翌年8月、極東国際軍事裁判(東京裁判)の証人として出廷、50年、身柄をソ連から中華人民共和国に移され、撫順(ぶじゅん/フーシュン)の戦犯管理所に収容された。51年、特赦によって北京に帰り、61年、中国人民政治協商会議文史研究委員会の専門委員。64年数奇を極めた自伝『わが半生』を書いて出版した。同年、政治協商会議全国委員に選出されたが、67年10月、死去した。
[安藤彦太郎]
『小野忍・野原四郎・新島淳良・丸山昇訳『わが半生』上下(1977・筑摩書房)』
中国,清朝最後の皇帝。在位1908-11年。年号により宣統帝という。また満州国の皇帝としては康徳帝といい,在位1934-45年。姓は愛新覚羅(アイシンギヨロ),字は浩然。光緒帝の弟載灃(さいほう)(醇親王)の長子として生まれ,西太后の意志で3歳で即位した。辛亥革命により退位後も中華民国臨時政府の清室優待条件により大清皇帝の尊号を保持し,紫禁城内に住んで小朝廷を維持していたが,1924年馮玉祥ら国民軍の北京占領に際し,優待条件を取り消され天津に移った。それ以前も以後も清朝再興の望みを捨てなかったが,31年の九・一八(満州)事変の翌年,日本の関東軍の働き掛けを受け入れて,彼らが樹立した〈満州国〉の執政,ついで34年皇帝となった。日本の敗戦によりソ連軍に捕らえられ,チタ,ハバロフスクの収容所を経て,50年以後撫順,ハルビンで囚人生活を送り,59年反省を認められて釈放され,北京の文史資料研究委員会に勤務した。64年北京で出版された自伝《わが半生》は世界中で反響を呼んだ。
執筆者:小島 晋治
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1906.2.7~67.10.17
清朝最後の皇帝。満州国皇帝。姓は愛新覚羅(アイシンギヨロ)。醇親王載灃(じゅんしんのうさいほう)の長子。1908年光緒帝の没後3歳で即位(清朝12代皇帝宣統帝)。11年辛亥(しんがい)革命がおき翌年退位。24年馮玉祥(ふうぎょくしょう)の北京占領によりいっさいの特権を奪われ,日本公使館へ逃げ込み,日本の庇護のもと天津に住む。31年(昭和6)満州事変が勃発すると,天津を脱出,翌年満州国の国家元首(執政)に擁立され,34年皇帝に即位。第2次大戦の敗戦後日本に亡命しようとしたが,45年8月19日瀋陽でソ連軍に逮捕され,翌年東京裁判に証人として出廷。50年身柄は中国に引き渡され,59年の特赦まで戦犯収容所に収容。67年北京で死去。
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1906~67(在位清朝1908~12,満洲国1934~45)
清朝最後の皇帝,宣統帝。姓は愛新覚羅(あいしんかくら)。3歳で即位,辛亥(しんがい)革命で6歳で退位。1924年馮玉祥(ふうぎょくしょう)に追われたため日本の保護を受け,32年満洲国執政,34年満州国皇帝となった。45年8月ソ連軍に捕えられ,東京裁判に出廷した。50年,戦犯として中国に引き渡され撫順(ぶじゅん)収容所にあったが,59年特赦され出所した。一市民として新中国の建設に協力した。
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…またジャーナリズムでは石橋湛山の率いる《東洋経済新報》が満蒙放棄論を主張したが,大勢に抗することはできなかった。
[〈満州国〉樹立]
関東軍は,軍中央の反対で当初企図していた満州領有は断念したものの,親日政権樹立,ついで独立国樹立をめざして着々と工作をすすめ,1931年11月には清朝廃帝の愛新覚羅溥儀(ふぎ)を天津の日本租界から満州へ脱出させた。また日本はイギリスなどの対日宥和(ゆうわ)政策を利用し,国際連盟で現地への調査委員会派遣を提案,12月これが可決され,イギリスのリットンV.A.G.R.Lytton(1876‐1947)を長とする調査委員会が派遣されることとなった。…
※「溥儀」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
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