1938年夏に起こった日ソ両軍の大規模な国境衝突。張鼓峰は豆満江下流の,当時の〈満州国〉とソ連との国境付近にあり,日本軍はこの方面を朝鮮軍の担任区域としていた。日中戦争が拡大すると日ソ関係は悪化したが,この年7月に国境の不明確なこの地域でソ連軍が張鼓峰に進出すると,日本はこれを国境侵犯だと抗議し,ついで第19師団長は独断でこれを夜襲して占領した。日本陸軍はスターリンの粛清でソ連軍が弱体化したと判断し,漢口作戦を前に威力偵察でソ連の出方を試そうと考えていた。ソ連軍の当初の反撃は失敗したが,8月6日から2個師団と戦車・飛行機を集中して第2次攻撃に出て日本軍を圧倒した。10日には第19師団は壊滅寸前にあるとし,速やかに外交交渉をはかるよう上申してきた。おりからモスクワでの外交交渉が日本側の譲歩で同日午後12時に結ばれ,日本軍は退却命令を出すことなく事件は解決した。ソ連軍は交通不便な地域にも迅速に強大な兵力を集中しうることを実証したのであるが,日本軍はこれを教訓としてうけとらず,かえってその仕返しをはかって1年後にノモンハン事件を引き起こしたのである。
執筆者:今井 清一
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1938年(昭和13)ソ満東部国境で起こった日ソ両軍の衝突事件。ソ連と「満州国」、朝鮮が国境を接する張鼓峰の小丘陵地帯の帰属は、かねて日ソ間の懸案であったが、同年7月ソ連軍が山頂に陣地工事を始めると、参謀本部はソ連軍に対する威力偵察の目的で武力発動を策した。しかし閣内や宮廷グループに反対が強く、7月20日板垣征四郎(せいしろう)陸相の応急動員下令の上奏に天皇は裁可を与えなかった。しかし国境に集結していた第19師団は大本営、朝鮮軍の制止を無視し、30日独断でソ連軍を攻撃、圧倒的な火力、機動力によるソ連軍の反撃を受けて多大の損害を出した。8月4日モスクワで日ソ間の交渉が再開され、11日停戦協定の調印により事件は落着した。
[鈴木隆史]
『藤原彰著『日中全面戦争』(『昭和の歴史5』1982・小学館)』
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日中戦争中,ソ満国境で発生した日ソ両軍の衝突事件。付近の国境線について日ソの主張は長年対立していたが,1938年(昭和13)7月11日,ソ連が国境守備隊の増強に着手すると,日本の第19師団はソ連軍の抗戦意思偵察を意図して,29日大本営の武力行使停止命令に従わずに攻撃を開始,31日張鼓峰を占領した。日本軍はソ連軍の反攻で苦戦したが,双方が迅速な外交交渉による解決をはかり,8月10日に停戦協定成立,11日に撤退した。
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…36年11月25日の日独防共協定の締結はソ連を恐怖させた。37年7月日本は日中戦争を起こし,侵略の方向を南にとったが,その後に,38年7月には朝ソ国境で張鼓峰事件,39年5~8月には満州・モンゴル国境でノモンハン事件と,2度にわたりソ連軍との本格的衝突を起こした。このうち,とくに後者において日本軍はソ連軍の機甲兵力の前に完敗した。…
※「張鼓峰事件」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
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