夫と死別した妻を一般的に後家,ヤモメと称したが,現在では未亡人という語が多く用いられている。しかしながらこの意味とは別に東北地方や北陸地方,伊豆諸島の一部などのように,ゴケヲイレル,ゴケイリ,ゴケカカなどといって後妻もしくは継母の意味で〈ゴケ〉が使われていることもある。近世の人別帳などには〈○○後家〉という形で一時的な家の代表者として記載した例も多く見られた。家族における後家の地位は,時代や家族形態によって多様であったが,夫の死後婚家を出て生家に帰ったり他家に婚出・分家することはまれであった。むしろ後家は夫の死後一時的に家長の後継者となったばかりでなく,レビレート婚によって夫の弟と結婚することによってひきつづき家長の妻の地位を確保する例が多くみられた。この意味において後家ということばには夫の死後,夫にかわって家を守るという役割が強調されている。また村落社会における後家は〈後家と娘は若い衆のもの〉という表現にうかがわれるように,若者組と深い関係があり,若者組に宿を提供することも多くみられた。
執筆者:上野 和男
鎌倉時代の初め,1232年(貞永1)制定の《御成敗式目》第24条の規定には,鎌倉幕府がその当時,とくに御家人一族の後家(未亡人)に対し,いかなる生活態度を順守するよう要求していたかが示されている。それによれば,夫の没後,その後家はあらゆる自分の欲望を捨て,ひたすら亡夫の後世(菩提)をとむらうよう努むべきであって,これに背き,みだりに再婚などすることは,大きな罪である。したがって,後家がもし亡夫に対する貞心を忘れて再婚しようとする場合には,亡夫が生前,彼女に対して与えていた所領などを,亡夫の子息にすべて返却すべきである,というのであった。この《式目》の表現からは,後家(妻)をあくまで夫方一族の〈家〉の一員としてみなす思想が,この当時すでにはっきり存在していたことが知られるだろう。しかも,このことは,必ずしも鎌倉幕府法の世界に限られたことでなく,京都朝廷における公家法の世界でも,原則としてまったく同じであった。そして,この時代の多くの古文書類をみると,後家たちが多く〈某尼〉と称している例を見いだしうるから,このような後家に対する法的規制は,形式的には,相当きびしく守られていたとみなければならない。
もっとも,そうはいっても,少なくとも在地武士層の後家たちは,夫なき後の家業の管理や所領支配の全般にわたって,なかなか重要な役割を果たしていた。それは,後家が,家業や所領の中継相続人という法的地位にあった事実に明らかである。これは,例えば,夫の死後も,後継者たるその子息がなお幼少であって,家業や所領を継承する能力に欠ける場合などに生じたもので,後家は,子息たちがりっぱに成人するその日まで,その家業,所領を一時的に相続するというものであった。鎌倉時代の史料には,武士団の後家が,亡夫の地頭職などを継承している例がしばしばみられる。例えば,承久2年(1220)12月10日付の関東下知状で,鎌倉幕府が,越後国奥山荘の高井重茂の後家尼を,同荘地頭職に補任していることなどがその例であって,これは,亡夫の家業をその後家が中継相続した例とみることができる。このほか,後家が,子どもに譲るべき数々の所領を中継相続した事例は,きわめて多い。したがって,鎌倉時代には,例えば北条政子のごとき女丈夫が出て,亡夫に代わってしばしばめざましい政治的活動をみせた例のあることが知られているが,それらは結局,以上のごとき中継相続という社会的慣行の力によるものであって,必ずしも政子などその女性個人の能力に帰さるべきことでないことに注意しなければならない。
こうした後家の中継相続が,なぜ可能であったかということも,よく考えてみなければならない問題である。公家の女性が,その家の荘園の預所職などをもつ場合には,実際の仕事は代官に任せて,彼女はその職にともなう得分(収益)のみを獲得しているというように理解することもできるが,農村社会に基盤をもった武士一族などの後家の場合は,多少とも,農民支配や所領年貢の徴収という実際の仕事にかかわることになるから,女性の身として,そうしたことがなぜ可能であったかを十分明らかにする必要がある。この問題を考えるさい重要なのは,鎌倉時代の女性たちは一般的に結婚の後も,里方一族から譲与された所領をもちつづけ,また里方一族の日常的な協力を得ていたという事実である。つまり後家たちが前記のように亡夫の家業,所領を管理するというとき,そこには里方一族からの物質的,精神的援助があったのであって,それがまた夫方一族の人々をして,後家の権威に服従せしめる暗黙の力ともなったのであった。その意味からすれば,この鎌倉時代には,後家(妻)の夫の家への隷属を条件とする〈家〉の制度は,なお未完成であったというべきだろう。さきの《御成敗式目》の規定にしても,後家の再婚を禁止する方向を表面的には示していながら,他方において,夫から譲られた所領を返せば,それが一応認められるというニュアンスをもっているところに,後家(妻)たちの夫家に対する隷属が,まだそれほど倫理的に徹底されていなかったようすがみられるのである。
ところが,南北朝・室町時代以降になると,上記のような後家の立場はしだいに弱まり,その夫家への隷属が本格化してくる。その歴史的原因としては,次の2点が考えられる。第1はこの時代,女性が里方所領に対する相続権をほとんど認められなくなったため,妻(後家)たちも,夫家の所領財産に依存する以外に生計の道を失ってしまったことである。そして第2としては,儒教原理を中心にもつ家の意識がようやく社会の隅々にゆきわたったため,妻の里方一族がかつてのごとく夫方一族の内部問題に介入することがまったく困難になったことである。室町時代に作られた《世鏡抄(せきようしよう)》という書物のうちには,すでに夫にとってその妻はその後継者(子ども)を生む道具にすぎないという表現をはじめ,女性の社会的差別につながる文言が多数あらわれ始める。ここに至って後家たちも,かつてのごとき家業,財産の管理人という主体的立場を喪失し,やがて夫家一族の男性たちや,主君が定める陣代,番代とよばれる後見人に,その地位を継承されることになったのである。
→家 →やもめ
執筆者:鈴木 国弘
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
夫と死別した妻、寡婦。未亡人と同義に通例用いられているが、「家」制度のもとで家長の没後も「婚家」にとどまり、中継的な家長ないしは若年の家長の後見の地位にある「妻」の身分をさすのが原義であろう。「後家」の用語は鎌倉期の文献にすでにみられるが、そこでは夫の死後も貞節を守って婚家にとどまる者は、嫡子幼少の場合は「中継相続人」として「御家人」の地位にあって所領を保つことができ、あるいは「相代行事人」として、幼少の家長の後見にあたることもできた。また「後家分」として亡夫の所領の一部を譲渡されることも通例であった。ともかく中世武家社会の「後家」の地位は相当に高く認められ、亡夫の後を受けて「家」の中心的存在となりえた。しかし近世武家社会では女性の地位は低下して、「後家」は所領処分、家督相続、後見などいっさいの権利を失い、ただ貞節を守って再嫁せず、とくに当主の嫡母は再婚、離縁を固く禁じられてもいた。しかし庶民の後家は「家」の相続主体となり「後見」の立場ももつことができ、さらには「後夫」を迎えることもできた。とはいえ婚家を離れての自由な再婚などは社会的に容認されなかった。明治民法では「後家」の名こそ消失したが、なお家長に死別した妻の地位はきわめて不自由で、後家の実質を久しくとどめてきた。現行民法のもと、「後家」の身分はまったく解消したが、「未亡人」とくに「女世帯主」の立場は、福祉法制の支えが若干あるものの、なおけっして安泰とはいえないものがある。
[竹内利美]
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
…父祖に家督を譲与すべき実子らがいないときには,その親族あるいは他人の中から養子をたてて,しかるのち,これを嫡子とするのを慣例としていた。また,実子がなお幼少であって,家業を継承する能力に欠けているときには,後家が中継相続人としてその地位を一時的に継承することがしばしばみられた。鎌倉時代の文書をみると,女子(後家)にして,一族の地頭職をもつものがしばしばみえるが,これなどは,まったくそうした後家の中継相続の事例と見るべきものである。…
※「後家」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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