中国伝統医学の一つで、もぐさ(艾)を皮膚上の特定の場所(灸点)で燃やし、身体に直接的あるいは間接的に温熱刺激を与え、多様な疾患の治癒力を促進させる療法。正式には灸治(きゅうじ)、灸術、灸療法とよばれる。皮膚の一部を焼いて各種の皮膚疾患や腫(は)れ物を治療する方法は、世界各地の古代社会からみられるものであり、現在でも獣医学では「烙鉄(らくてつ)」という療法が用いられている。これは、熱したこてで疾患の急所を焼き、筋や腱(けん)の炎症を治す方法である。とくに、競走馬の慢性腱炎の治療に効果的であるという。この療法は、かつては動物の消化不良、眼病等にも用いられた。こうした療法を人間で行い、その治療の体系が巧妙になったものが灸治といえる。
[間中喜雄・板谷和子]
中国最古の医書『黄帝内経(こうていだいけい)』を構成している「素問(そもん)」の骨空篇(へん)には、熱病に対する灸のやり方が詳しく書かれている。また、「犬噛(か)む所の処(処置の意)に灸すること三壮」と外科的な焦灼(しょうしゃく)法も記されている(壮は灸を据える回数や、もぐさの分量を数えるのに用いる)。同じく『黄帝内経』の「霊枢(れいすう)」にある官能篇では、「陰陽皆虚すれば火自(おのずか)ら此(これ)に当る」として、体力の衰えた慢性病に灸治を勧めている。これらの文献からも、中国では数千年前から灸治が行われ、その方法が体系化されていたことがわかる。日本には、562年呉(ご)の知聡(ちそう)がもたらした『明堂図(めいどうず)』その他の医書によって灸治が伝えられた。その後、大宝律令(たいほうりつりょう)(701)では、医師の身分を定めた「医疾令(いしつりょう)」のなかで鍼(はり)師、鍼博士、鍼生等の制が設けられている。平安時代には丹波康頼(たんばのやすより)が日本で初めて全30巻からなる中国医学大系『医心方(いしんほう)』を著し、そのうちの2巻に鍼灸(しんきゅう)の処方が詳しく述べられている。鎌倉時代から室町時代にかけての戦乱の時期には、灸治が外科領域に大いに応用された。江戸中期の後藤艮山(こんざん)は、「病気は一気の留滞によっておこる」という説(一気留滞論)を唱え、全身の循環を促進する治療の一つとして、熊胆(ゆうたん)、蕃椒(ばんしょう)(トウガラシ)、温泉療法とともに、灸治を盛んに奨励した。
江戸時代に来日したヨーロッパ人は、日本で灸治が広く行われていることを見聞し、そのうちの1人は、「東洋人のうちでは、もっとも知能的である日本人が行っているのだから、かならずや理にかなった療法であろう」と報告し、日本語のもぐさをなまって「モクサ」moxaとして西洋に伝えた。
灸治は、元来は医師が鍼法とともに学んで治療に用いたものであるが、やがて一般の者が自分で行うようになった。とくに江戸時代の中期から後期にかけては民間療法として広まり、医師はやや灸治を蔑視(べっし)するようになった。明治時代を迎えると同時に、鍼灸医学も西洋文明の波に押し流され、民間療法としてわずかに残されたにすぎなくなった。こうした状態が第二次世界大戦後まで続くが、1947年(昭和22)「あん摩師、はり師、きゆう師及び柔道整復師法」という身分法が制定公布された。この身分法は1970年に一部改正され、「あん摩マツサージ指圧師、はり師、きゆう師等に関する法律」となり、現在に至っている。この法律の制定により、灸師になる者は国家試験を受け、合格しなければならないこととなった。
[間中喜雄・板谷和子]
灸は鍼と同様、その刺激効果によって中枢神経(脳脊髄(せきずい)神経)、あるいは自律神経に反射がおこり、皮膚表層または筋肉層から内部臓器に血行の変化、緊張の変化がもたらされる。このため、疼痛(とうつう)の緩解等の現象がみられるわけである。また、最近の研究では、刺激を加えることによって、中枢神経系を介して脳下垂体副腎(ふくじん)系が作動し、消炎ホルモンの分泌、あるいは鎮痛作用をもつモルフィン様物質が分泌されるという作用機序(メカニズム)が明らかになってきている。
このほか、灸治では、その熱傷によって細胞が分解され、一種のタンパク分解産物が生じ、これが血液のなかに吸収され、回復を促す働きをもつという研究も、日本では行われてきた。こうした奏効原理に基づいて、灸治は臨床的に次のような目的で利用されている。
(1)多くの痛みのある疾患、とくに腸管、胆(たん)管、輸尿管、血管等の平滑筋のけいれんによっておこる激痛や、骨格筋の緊張に由来する痛み、凝りなどの鎮痛作用。
(2)血液循環をよくし、しびれ感、麻痺(まひ)感等の治療のほか、脳の血行、四肢の血行をよくして血圧を調整する。また、内分泌器官に影響を与え、ホルモンの分泌を調整する。
(3)長期に行うことによって、肥満ややせすぎを改善する。
(4)消化機能の低下を改善する。
(5)免疫機構、造血器に作用を及ぼすことによって血色などをよくし、感冒にかかりにくくする。
(6)自律神経失調を改善し、円形禿頭(とくとう)症、いぼ、皮膚の角化症、睡眠不足などを治療する。また、皮膚の色素沈着にも有効である。
(7)喘息(ぜんそく)、アトピー性皮膚炎、じんま疹(しん)などのアレルギー性疾患の治療。
[間中喜雄・板谷和子]
灸は有痕(ゆうこん)灸と無痕灸とに大きく分けられる。有痕灸とは、もぐさを直接皮膚上にのせて線香で点火し、燃焼させる方法で、皮膚に小さな熱傷をおこし、灸痕が残る。さらに強烈な灸は打膿(だのう)灸といって、施灸後、強い刺激作用のある膏薬(こうやく)をしばらく貼用(ちょうよう)し、人工的潰瘍(かいよう)(10円硬貨大)をおこさせるものである。これは、難治な疾病の転調療法として用いられる。有痕灸では、もぐさの成分がもつ薬理作用が治療のうえで有効であるという研究報告もされている。無痕灸は、灸痕を残さない方法であり、灸点部に、みそ、ニンニク、ショウガなどの薄片を置き、その上から灸をする。無痕灸は、灸痕を嫌う人、灸による疼痛を恐れる人、熱刺激に過敏な人に適当である。無痕灸には、このほか、鍼を刺し、その柄でもぐさを焼く灸頭鍼、電熱で温める電熱灸、さらには筒のなかでもぐさを燃やして間接的に温めたり、葉巻状のもぐさを近づけて温めるなどの多くの変法がくふうされており、民間療法としても広く用いられている。
[間中喜雄・板谷和子]
中国医学では鍼と灸をあわせて鍼灸とよび、同系列の治療法である。いずれも体表上の「つぼ」とよばれる点状の部分(経穴(けいけつ))で治療する。効果もほぼ似た点が多い。相違点は、鍼は、特殊の治療具を必要とし、刺入操法に技術が要るので、だれでも行えるというわけにはいかず、鍼師に頼まなければならない。
一方、灸は、つぼを知れば家庭でも行えるという手軽さがあり、民間療法としても普及している。しかし、灸には、皮膚に灸痕が残ったり、もぐさを焼くとき、うまくやってもほんの一瞬ではあるが痛みがあるといったことから、若い女性を中心に嫌われてきた。ところが最近では、前述のような無痕灸もくふうされているので、灸に対する認識も変わりつつある。ことに、現代医学でも治療しにくいとされる体質性疾患、自律神経失調、根治困難な老人病に灸は有効であり、素人(しろうと)が灸の基本を知っておくことは有意義である。また、医師の不在な場所での救急療法として、灸はもっと利用されてもよいと思われる。
[間中喜雄・板谷和子]
『間中喜雄著『間中博士のキュウとハリ』(1971・主婦の友社)』▽『深谷伊三郎著『名家灸選釈義』(1977・刊々堂出版社)』
出典 平凡社「普及版 字通」普及版 字通について 情報
もぐさを皮膚の特定の部位(これを〈つぼ〉という)に置き,これを燃焼させて適当な熱刺激を与え,これによって生体の違和を除き,自然治癒力を促進させ,病気を治す療法。〈やいと〉ともいう。はり(鍼)療法とともに東洋医学の重要な物理療法とされる。
その起源には中国説とインド説があるが,詳しいことはわからない。中国では《史記》の〈倉公列伝〉にすでに特定の病気に対して特定のつぼに灸を行ったことが記載されており,また現存する最古の医書である《黄帝内経》にも灸治療法が述べられている。日本へは6世紀後半に伝わり,さらに僧医らが仏教の普及の一環として広めた。江戸時代には庶民階級に広まり,病気の治療や養生法として行われ,《柳多留》には灸についての句が多くみられる。明治以降,日本の医学が資本主義経済に適合する西洋医学に全面的に切り替えられたため,灸療法はわずかに民間療法として命脈を保ってきたが,大正末期から昭和初期にかけて,医学界の一部で灸の血液像に及ぼす影響などの研究が行われ,あらためて注目された。最近は,薬の副作用などへの危惧から愛用者が増えている。
灸は大別すると,有痕灸と無痕灸とがある。
(1)有痕灸 皮膚に直接もぐさを付着させて燃焼し,小さな火傷を起こす方法で,たんに灸という場合はこれをいう。これにはさらに透熱灸(または点灸)と打膿灸とがある。透熱灸は,特定のつぼに米粒の半分くらいからアズキくらいの大きさのもぐさを,病状,体質,年齢などを考慮して,最も適した大きさ,堅さ,壮数(灸の回数の呼称)を選んで行う。燃焼時の最高温度は80~100℃である。打膿灸は,人差指の頭くらいの大きさのもぐさを燃焼させて火傷をつくり,これに相撲膏をはって長期間排膿させる方法である。
(2)無痕灸 知熱灸と間接灸とがある。知熱灸は,人差指の頭くらいのもぐさを燃焼し,熱さを感じたら取り除く方法である。間接灸は,皮膚ともぐさの間にショウガ,ニンニクなどの薄片やみそ,塩,湿紙などを置いて行う方法である。
灸の効果については,神経反射説や火傷による血液成分への影響,もぐさ特有の有効成分の浸透説などがあるが,定説はない。最近はつぼの働きが注目されている。適応範囲は広く,とくに慢性の頭痛,神経痛,リウマチ,胃腸病,婦人科疾患,呼吸器疾患等に効果がある。また,専門家が適切な診断を行えば,風邪,腹痛,中毒,炎症性疾患などの急性症状にもきわめて有効な場合が多い。施術者は灸師というが,灸師は所定の教育を受け,都道府県知事の免許を受けなければならない。
→経絡 →東洋医学 →鍼(はり)
執筆者:島田 隆司
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
出典 株式会社平凡社百科事典マイペディアについて 情報
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
…鍼灸とは鍼と灸の総称である。針灸とも書く。…
…2月と8月(または5月)の2日に灸をすえる慣行。二日キュウ,二日ヤキ,ヤイト正月,ヤイトゾメなどともいう。…
※「灸」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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