デジタル大辞泉
「林鳳岡」の意味・読み・例文・類語
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はやし‐ほうこう【林鳳岡】
- 江戸前期の儒者。名は春常・信篤。字は直民。別号は整宇。羅山の孫、鵞峰の第二子。元祿三年(一六九〇)、将軍綱吉の命により書を殿中の諸士に講じ、翌年、忍岡の学問所および聖堂を湯島に移し、僧侶の風から束髪改服することを決め、大学頭に任ぜられた。家綱から吉宗までの将軍五代に仕えた。「武徳大成記」を編し、服忌令を定めた。正保元~享保一七年(一六四四‐一七三二)
出典 精選版 日本国語大辞典精選版 日本国語大辞典について 情報 | 凡例
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林鳳岡
はやしほうこう
(1644―1732)
江戸中期の儒者。名は信篤(のぶあつ)、または戇(とう)。字(あざな)は直民。鳳岡、整宇(せいう)と号す。鵞峰(がほう)の次男。兄春信(1643―1666)が早世したので家を継ぐ。1690年(元禄3)忍ヶ岡(しのぶがおか)の林家の学問所、聖堂を湯島に移す。このとき将軍綱吉(つなよし)の命により蓄髪し、大学頭(だいがくのかみ)に任ず。儒者が僧形(そうぎょう)をやめて一般の武士と同列に交わるようになったのは、ここに始まる。以後、家宣(いえのぶ)、吉宗(よしむね)の代まで湯島を文教の府となして儒教を振興すべく努める。著書に『鳳岡学士集』などがある。
[玉懸博之 2016年6月20日]
出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例
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林鳳岡 はやし-ほうこう
1645*-1732 江戸時代前期-中期の儒者。
寛永21年12月14日生まれ。林鵞峰(がほう)の次男。元禄(げんろく)4年徳川綱吉の命で,上野忍岡(しのぶがおか)の邸内の聖堂(孔子廟(びょう))を湯島昌平坂にうつす。これとともに蓄髪をゆるされ,士分となり,大学頭(だいがくのかみ)に任じられた。享保(きょうほう)17年6月1日死去。89歳。江戸出身。名は戇(とう),信篤。字(あざな)は直民。通称は春常。別号に整宇。著作に「四書講義」,編著に「武徳大成記」など。
出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例
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林鳳岡
はやしほうこう
1644.12.14~1732.6.1
江戸中期の儒学者。大学頭。鵞峰(がほう)の次男。名は又四郎・春常・信篤・戇(とう),字は直民。鳳岡・整宇と号す。正献は私諡。1680年(延宝8)林家を継ぎ,徳川家綱以後5代の将軍のもとで幕府の文書行政に参与。朝鮮通信使の応接にもかかわる。「武徳大成記」などの編纂に従事し,林家の官学的傾向を強めた。1691年(元禄4)湯島聖堂の竣工にあわせて大学頭に任じられ,儒官の剃髪も終焉した。「鳳岡林先生全集」がある。
出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報
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林鳳岡
はやしほうこう
[生]正保1(1644).江戸
[没]享保17(1732).6.1. 江戸
江戸幕府の儒官。鵞峰の子。名は信篤。字は春常。幕府儒官林家 (りんけ) を継ぎ,元禄4 (1691) 年林家の家塾が湯島に移って昌平黌となると,その大学頭となった。また儒者が士籍に入ることを主張して,これを成功させた。将軍綱吉,吉宗の信頼が厚く,門下からは幕府および諸藩に仕える者を輩出した。
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
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林鳳岡
はやしほうこう
1644〜1732
江戸中期の朱子学者
名は信篤 (のぶあつ) 。鵞峯の子。1680年林家を継ぎ,徳川綱吉・家宣 (いえのぶ) ・家継・吉宗に仕えた。『武徳大成記』を編集。'90年綱吉の命で湯島に聖堂を移し,翌年大学頭に任じられた。以後大学頭の職は代々林家の世襲となった。
出典 旺文社日本史事典 三訂版旺文社日本史事典 三訂版について 情報
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出典 株式会社平凡社百科事典マイペディアについて 情報
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林鳳岡 (はやしほうこう)
生年月日:1644年12月14日
江戸時代前期;中期の儒学者
1732年没
出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報
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世界大百科事典(旧版)内の林鳳岡の言及
【林家】より
…〈はやしけ〉の音読による呼称で,江戸時代,[林羅山]を初代として幕府の教学に関与すること12代に及んだ家。1607年(慶長12)羅山が徳川家康に登用され,諸法度の起草,外交文書の起案など枢機に参与し,側近者的役割を果たし,秀忠,家光にも出仕し,その忍岡(しのぶがおか)の家塾は幕府の学問所的役割を担い,江戸の漢学興隆の基を開いた。次の鵞峯(がほう)も治部卿法印,弘文院学士としてその役割を継承し,3代の鳳岡(ほうこう)は蓄髪して大学頭に任ぜられ,将軍綱吉の学問振興策に際会し教学の中心となった。…
※「林鳳岡」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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