後野村(読み)うしろのむら

日本歴史地名大系 「後野村」の解説

後野村
うしろのむら

[現在地名]浜田市後野町

黒川くろかわ村の東に位置し、東は佐野さの村、北は上府かみこう村。ほぼ東西石見安芸道が通る。同街道は黒川村境のいちわたしから上ゲ山あげやま辻堂つじどうを経て江坂えさか峠から佐野村に至った。辻堂には浜田藩主の休息所である茶屋があった。中世には良万りようまん別符・後野名・大迫おおさこ名が成立していたとみられる。良万別符は当地両間りようまが遺称地とされ、貞応二年(一二二三)三月日の石見国惣田数注文に「りやうまん 一丁四反三百卜」とみえる。また検討の余地がある文書ではあるが、元暦二年(一一八五)六月日の源義経下文(益田家什書)に益田兼高知行分として「伊甘郷在小割名、須本村、良万別符」などがある。当地は伊甘いかみ郷・小石見こいわみ郷・佐野さの別符などが境を接するところであり、後野名・大迫名は独立所領かどうか不明。


後野村
うしろのむら

[現在地名]加悦町字後野

金屋かなや村の北に位置し加悦谷盆地の南部にあたる。加悦街道沿いに集落が形成された。村内には条里制の遺構が残り、小字前田まえだ中坪なかつぼうめつぼはその遺名とされる。

慶長検地郷村帳に高五八六・六七石「後野村」とみえる。延宝九年(一六八一)の延高で八一四石余となった(天和元年宮津領村高帳)。宮津藩領。

幕末期の戸口は一八七軒、九一八人(与謝郡誌)。うち百姓七二軒、水呑一〇四軒で加悦谷の村々のうちで水呑の絶対数および比率が最も高い。

享和三年(一八〇三)御領分縮緬屋御鑑札御改帳(「丹後加悦町誌」所引)によれば、後野村は機数一二〇、ほかに帯二機で、その機数からいえば三河内みごち(現野田川町)に次ぐ盛況である。


後野村
のちのむら

[現在地名]和泉村後野

石徹白いとしろ川の中流谷間に位置する小村。上流角野前坂かくのまえさか村、下流伊月いつき村。本願寺直末への動きに対し、本願寺の誡告を受けて長勝ちようしよう(現大野市)へ帰参することを誓った文禄五年(一五九六)一一月二〇日付の誓紙(長勝寺文書)に「後の油」の名があり、当村のことと思われる。村名は正保郷帳にみえ、田方六石余・畠方二石。江戸時代は下流の朝日あさひ村・角野村と度々山論を起こした。


後野村
うしろのむら

[現在地名]那珂川町後野・恵子えこ四丁目

道善どうぜん村の南にあり、片縄かたなわ山の南東麓、那珂川左岸に位置する。西から妙見みようけん川が流れる。小早川時代の指出前之帳では後野村は田一四町二反余(分米一八五石余)・畠四町七反余(分大豆三二石余)。慶長七年(一六〇二)の検地高は二八四石余(慶長石高帳)。寛文九年(一六六九)地押検地が実施された(「筑前国御免帳書抜」九州大学経済学部蔵)


後野村
うしろのむら

[現在地名]多久市南多久町みなみたくまち長尾ながお 後野

桐野きりの山の西麓山間部に散在する集落。

現存する田畑帳にみる初見は、宝暦五年(一七五五)後野分巡見方田畑帳で、村名があるのは天明四年(一七八四)の後野村新田畑山帳である。しかし文政六年(一八二三)書出には長尾村に含まれている。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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