中国,明代の文学者。字は中郎。兄の宗道,弟の中道とともに三袁と呼ばれ,またその出身地の公安(湖北省)にちなむ公安派の中心人物。20歳代から反伝統主義思想家の李贄(りし)(卓吾)に師事して批判精神を鍛えられ,当時の文壇を支配していた〈古文辞〉派の擬古主義を激しく攻撃した。その詩論で強調される〈性霊〉の発露とは,先験的に内在する純粋な詩精神の流露を目ざし,形式的な古典規範の模倣を拒否するものであった。しかしその理想は楽天的・高踏的なロマンティシズムの域を出ず,また彼自身のエピキュリアン的な資質の制約から,擬古主義の大勢を崩すまでにはいたらなかった。とはいえ彼が詩壇に吹きこんだ新風は,それなりの効果を次の世代に伝え,新たな革新の呼び水となった(竟陵派)。その影響は日本にも及び,元禄年間(1688-1704),山本北山,元政上人らの心酔者は,これを借りて荻生徂徠一派の古文辞学を激しく批判した。
執筆者:入矢 義高
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中国、明(みん)末の詩人。字(あざな)は中郎、号は石公。公安(湖北省)の人。兄の宗道、弟の中道とともに公安三袁と称された。1592年(万暦20)の進士。彼は「古今は優劣を以(もっ)て論ず可(べ)からず」といい、各時代の文学には、各長所と欠点が併存し、欠点がようやく顕著になると、改革がおこると考え、文学は時代とともに変遷するという認識にたって、不変の規範を信奉し、古典の形骸(けいがい)を学ぶだけであった当時の復古派を厳しく批判した。また真情の吐露をもっとも重視したその主張は性霊説とよばれ、復古派の格調説と正面から対立した。その清新軽俊の詩風は、公安派という有力な文学運動に発展し、明末の詩壇を席巻(せっけん)したが、復古派を打倒するには至らなかった。しかし彼自身の作詩態度はむしろ反俗的、高踏的で、その主張とはかならずしも一致せず、詩よりも小品散文にエスプリにあふれた愛すべき作品が多い。『袁中郎全集』がある。伝は『明史』文苑伝(ぶんえんでん)4に記される。
[福本雅一]
『入矢義高注『中国詩人選集二集 11 袁宏道』(1963・岩波書店)』
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…中国,明代後期に湖北省公安から出た袁氏三兄弟(袁宗道(1560‐1600),袁宏道,袁中道(1570‐1623))に代表される反擬古主義の文学者のグループ。もっとも彼ら自身はこう名のったことはなく,また3人それぞれ性向も資質も異なるが,ともに師事した李贄(りし)(卓吾)から,ものごとの真実を主体的に把握すべきことを学んだ。…
…書画に秀でたほか,さらに戯曲四部作《四声猿》も残している。生前はほとんど無名に近かったが,死後数年目に袁宏道がその詩文集を編集,〈徐文長伝〉を著して,李攀竜,王世貞らの古文辞派に反対する有力な先人として世に紹介した。【松村 昂】 みずから〈書が第一,詩がこれに次ぎ,文はこれに次ぎ,画はまたこれに次ぐ〉と称したといわれる徐渭は今日では画家としての評価も高く,宋代以来の花卉(かき)雑画の世界に水墨による新たな表現を切り開き,清代における花卉雑画の盛行を導いた画期的な存在とされる。…
…中国,明代,公安派の袁宏道によって首唱された明代詩界を代表する詩論の一つ。前・後七子の古文辞派の格調説が詩情を拘束することを嫌い,《文心雕竜(ぶんしんちようりよう)》にみえる性霊の語を用いて詩人固有の真情を尊重し,独創性を重視せんと主張した。…
…これらに反対して宋詩のすぐれた点を見なおし,その長所を取り入れるべきだと論ずる人もあった。袁宏道(えんこうどう)(中郎)を中心とする公安派と,鍾惺(しようせい)らの竟陵(きようりよう)派とである。この論争は清朝まで尾を引く(日本では格調派と性霊派とよばれる)。…
※「袁宏道」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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