ごく最近まで心理小説という言葉は,フランス独特の心理分析小説を連想させた。ラファイエット夫人の《クレーブの奥方》(1678)に始まり,アベ・プレボーの《マノン・レスコー》,ラクロの《危険な関係》,コンスタンの《アドルフ》,スタンダールの《赤と黒》を経て,フロマンタンの《ドミニック》,ジッドの《狭き門》に至る系譜の小説である。そこでは,作者が作中人物の心理の動きを分析的言語で解説し,とくに恋愛過程における彼らの志向のすれ違いを,自己の感情についての錯覚や相手の感情についての誤解が織りなす悲劇的あるいは喜劇的事件の連鎖によって描くのが特色となっている。その極致がラディゲの《ドルジェル伯の舞踏会》(1924)で,古典的な硬質の文体でシニックに解剖された心理の交錯が,象牙の駒のかち合う音の響く将棋ゲームのような抽象化に達している。日本でも,大岡昇平の《武蔵野夫人》や三島由紀夫の《愛の渇き》にその強い影響が見られる。
しかし,元来人間の心の動きは不定形で流動的で矛盾に満ちたものであるから,概念化できない要素をそぎ落としてしまう分析的言語によらずに,もっと直接的に心理を描写しようとする作家も多く,18世紀以来の英米文学にこの傾向が著しい。K.マンスフィールドは《園遊会》(1922)で印象派風の心理の点描法を試み,ジョイスは《ユリシーズ》(1922)で〈意識の流れ〉や〈内的独白〉の手法を創始した。ポーの諸短編が素描した〈あまのじゃく〉の心理は,ロシアのドストエフスキーによって無意識の深淵にまで追求され,心理分析小説の前提である古典力学的決定論を完全に無効にした。こうした傾向を集約した人間学の新しい理論として登場したのが,フロイトの精神分析学であるが,それと呼応するかのように,プルーストは畢生の大作《失われた時を求めて》(1913-27)で,〈私〉の独白に始まる自伝的回想が,そのまま写実的な一時代の風俗の壁画でもある空間を創造して,心理小説に終止符を打った。人物や家屋や家具の純粋に視覚的な描写の連続のしかたが,そのまま観察者=話者である主人公の嫉妬の情念の形象化でもあるようなロブ・グリエの《嫉妬》(1957)は,プルーストの方法をいっそうつきつめた成果であるが,その先駆者は《ボバリー夫人》(1857)のフローベールにほかならない。
この観点からすると,どんなに写実的であろうと,すべての小説は心理小説であるという逆説も成り立つ。それは対象から独立した意識は存在せず,〈自転車の意識とは自転車のイメージである〉というフッサールの現象学とも符合する。とはいえ,作中人物の心理分析に関心を集中しているN.サロートや中村真一郎のような作家も健在で,ことに前者の《プラネタリウム》(1959)は,意識と無意識の相互干渉を解説せずに具象化した,現代に可能な唯一の心理小説と見なせよう。
執筆者:平岡 篤頼
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
人間内部の心理の動きに焦点をあて、その分析、観察を主眼とする小説。社会の成員としての人間を外側から描写する写実小説と対比される。騎士道恋愛物語と宮廷文化のもっとも発達したフランスで、ラファイエット夫人の『クレーブの奥方』(1678)に端を発し、プレボーの『マノン・レスコー』(1731)、ラクロの『危険な関係』(1782)、コンスタンの『アドルフ』(1816)、フロマンタンの『ドミニック』(1863)といった、この傾向を代表する一連の作品が生まれた。いずれも恋愛心理の綾(あや)を力学的に分析した主知的な小説で、その系譜はジッドの『狭き門』(1909)や『田園交響楽』(1919)、ラディゲの『ドルジェル伯の舞踏会』(1924)からソレルスの『奇妙な孤独』(1958)にまで及び、とりわけ両次世界大戦間に流行した。スタンダールの『赤と黒』(1830)や『パルムの僧院』(1839)にも分析的傾向が著しいが、彼は『谷間の百合(ゆり)』(1836)のバルザックと同様、人間心理を社会環境との相関関係においてとらえ、社会観察の写実主義と人物内面の心理分析とを総合した、いっそう全体的な視野にたつ長編形式を創造し、以後、それが近代小説の主流となった。そのもっともつきつめた形が、記憶の間欠という現象を追求して、一人の人間の内面を微に入り細をうがって分析すると同時に、退廃的な上流社会の風俗を鮮やかに再現した、プルーストの大長編『失われた時を求めて』(1913~27)である。そのほか、人間の心の非論理的あいまいさを暴き出したロシアのドストエフスキー、イギリスでは、「意識の流れ」を定着する「内的独白」を駆使して、画期的な大作『ユリシーズ』(1922)を書いたジョイス、意識の拡散的不連続性を明らかにしたV・ウルフらが、それぞれに新しいタイプの心理小説を創始した。彼らに共通するのは、フランス的心理分析小説を否定し、無意識の領域にまでその探索の範囲を広げて、フロイトらの精神分析学の成果と呼応していることである。
日本では、すでに二葉亭四迷(ふたばていしめい)の『浮雲』に精妙な心理分析がみられ、夏目漱石(そうせき)の諸作品も深淵(しんえん)を目ざす心理主義とみなすことができるが、新感覚派の横光利一、川端康成(やすなり)らに続いて、『聖家族』(1930)の堀辰雄(たつお)、『幽鬼の街(まち)』(1937)の伊藤整(せい)が、プルースト、ジョイス、ラディゲの影響下に本格的心理小説を試みた。第二次世界大戦後、大岡昇平、三島由紀夫(ゆきお)、中村真一郎、福永武彦(たけひこ)らがこの系譜を受け継いでいる。
ドストエフスキーまで心理小説に含めると、埴谷雄高(はにやゆたか)、武田泰淳(たいじゅん)、野間宏(ひろし)をはじめ、範囲を画定することが不可能なくらいその影響が大きく、ある意味では、スタンダール以来のすべての小説は心理小説としての側面を備えている。
[平岡篤頼]
『R・M・アルベレス著、新庄嘉章・平岡篤頼訳『現代小説の歴史』(1965・新潮社)』▽『伊藤整著『新心理主義文学』(1932・厚生閣)』
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