小説家、評論家。1918年(大正7)3月5日、東京日本橋に生まれる。東京帝国大学仏文科卒業。1941年(昭和16)ネルバルの『火の娘』の翻訳が縁となって堀辰雄を知り、師事する。42年加藤周一、福永武彦(たけひこ)らと文学研究グループ、マチネ・ポエティクを結成。一方、ファシズムの荒れ狂うなかで発表のあてもなく長編『死の影の下(した)に』を書き続けた。それは、第二次世界大戦後、雑誌連載ののち、47年に刊行されると一躍注目され、戦後派作家としての位置を確立した。同年『近代文学』の同人に参加。以後『死の影の下に』、『シオンの娘等』(1948)、『愛神と死神と』(1950)、『魂の夜の中を』(1951)、『長い旅の終り』(1952)の長編五部作をはじめ、『回転木馬』(1957)、『空中庭園』(1963)、『雲のゆき来』(1965)などで20世紀のヨーロッパ文学の手法をとり入れ、さまざまな文学的実験を試みることとなる。他方、評論『王朝の文学』(1957)や『頼山陽(らいさんよう)とその時代』(1971。芸術選奨受賞)などでも独自の境地を開く。評論にはほかに『芥川龍之介(あくたがわりゅうのすけ)の世界』(1968)、『近代文学への疑問』(1970)など多数ある。一生を四季にたとえ、10年がかりで完成した『四季』四部作(1975~84)が代表作とされる。『夏』で78年度谷崎潤一郎賞、『冬』で85年に日本文学大賞を受賞。日本の近代の作家にも関心が強く、芥川龍之介や豊島与志雄(よしお)を積極的に評価し、彼らの創作の試みを高く評価したことでも忘れることはできない。93年(平成5)から日本近代文学館理事長を務めた。1997年(平成9)12月25日没。
[関口安義]
『『中村真一郎長篇全集』全4巻(1970~75・河出書房新社)』▽『『中村真一郎評論全集』全1巻(1972・河出書房新社)』▽『『中村真一郎短篇全集』全1巻(1973・河出書房新社)』▽『『中村真一郎評論集成』全5巻(1984・岩波書店)』▽『『中村真一郎劇詩集成』全2巻(1984~85・思潮社)』▽『『中村真一郎小説集成』全13巻(1992~93・新潮社)』▽『篠田一士解説『日本の文学72 中村真一郎他』(1969・中央公論社)』▽『佐岐えりぬ著『時のいろどり――夫中村真一郎との日々によせて』(1999・里文出版)』
昭和・平成期の作家,文芸評論家,詩人,戯曲家 日本近代文学館理事長;全国文学館協議会会長。
出典 日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」(2004年刊)20世紀日本人名事典について 情報
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…東大仏文科卒。1942年に中村真一郎,加藤周一らと文学グループ〈マチネ・ポエティク〉を結成し,押韻定型詩をこころみ,また長編を書きすすめた。戦後は結核が再発して療養生活をつづけたために出発がおくれたが,長編《風土》(1952)が西欧的ロマンとして注目され,《草の花》(1954)によって戦後作家としての位置を確立した。…
…また,《詩と詩論》など,シュルレアリスムをはじめとする同時代の文学の紹介に熱意を示す雑誌が,つぎつぎに刊行されたのもこの時期である。 第2次大戦後,特筆しなければならないのは,野間宏におけるジッドやサルトル,中村真一郎におけるネルバルやプルーストのように,フランス文学に対する理解が,小説の方法そのものとして血肉化されていることである。モーリヤックと遠藤周作の関係についても,同じことが言える。…
※「中村真一郎」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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