志布志城跡(読み)しぶしじようあと

日本歴史地名大系 「志布志城跡」の解説

志布志城跡
しぶしじようあと

[現在地名]志布志町帖

志布志湾に注ぐまえ川の河口近く、沢目記ぞめき川との合流点北側にある。両川に挟まれた標高約五八メートルを最高地点とするシラス台地の先端とその周囲に築かれた山城跡。うち城・広友ひろとも城・城山ともいい、城の南西には北から松尾まつお城・たか城・しん城がある。文書・記録類にみえる志布志城は最初松尾城をさし、その後は内城をさす。それ以外に内城・松尾城・高城・新城まで含める場合もあった。内城がこれら城砦群の中心で一般的には志布志城とは内城のことをいう。

「志布志旧記」は鎌倉期以来地頭島津氏を城主とするが、確認できない。建武三年(一三三六)一月二九日、南朝方肝付氏与党の守る「救仁院志布志城」が北朝方の大隅国御家人重久篤兼らにより攻略された(同年二月日「重久篤兼軍忠状」旧記雑録)。この志布志城は松尾城のことで、この合戦の直前に築城されたと思われる。築いたのは楡井四郎頼仲とも伝える。楡井氏は信濃国にれ(現長野県三郷村)出身の信濃源氏という(「山田聖栄自記」など、ただし現長野県須坂市仁礼出身とする説などもある)。貞和四年(一三四八)六月の重久孫八(篤兼)宛の島津貞久書下(旧記雑録)によれば南朝方の頼仲が立籠る松尾城攻撃のため北朝方の畠山直顕が向かったので、島津貞久も大隅国へ発向するため重久へ守護所への参集が命じられている。同年八月二九日には頼仲ら凶徒退治を命ずる足利直義御教書(同書)が島津貞久宛に出され、これを受けて一一月一六日には島津氏から重久孫八らに来る二八日以前に参集するよう命じられた(「島津貞久施行状」同書など)。観応二年(一三五一)八月一二日禰寝清成らを含む畠山直顕の軍勢により頼仲の籠る松尾城が攻撃され、翌一三日落城した(同年八月日「禰寝清成軍忠状」禰寝文書など)。延文二年(一三五七)一月晦日頼仲らは籠っていた日向胡麻崎ごまがさき(現大崎町)を北朝方に攻略され、二月五日宝池ほうち(大慈寺)に入り自刃したという(同年五月「禰寝重種軍忠状」禰寝文書、「山田聖栄自記」、「肝付兼氏譜」旧記雑録)

その後松尾城には島津氏久の養子に準ずる新納実久が入った(山田聖栄自記)。当時大隅守護であった奥州家の島津氏久と三条泰季は足利直冬方にくみしていたため、足利尊氏方の日向守護畠山直顕は自ら松尾城の実久を攻めた。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

国指定史跡ガイド 「志布志城跡」の解説

しぶしじょうあと【志布志城跡】


鹿児島県志布志市志布志町にある城跡。志布志湾北側の前川河口に近いシラス台地上に展開する大規模な中世の山城跡。内城・松尾城・高城・新城の4城を総称して「志布志城」と呼び、2005年(平成17)に国の史跡に指定された。城の築城年代は不明だが、中世の争乱期に次第に規模を拡大し、つねにこの地方の支配者の居館であった。その変遷は1189年(文治5)ごろの救仁院(くにいん)氏の居城から、1577年(天正5)の島津初代地頭、鎌田出雲守政近まで、約400年にわたる豪族の興亡を見ることができる。内城跡は南北600m、東西300mで、6つの主要な曲輪(くるわ)と台地を縦横断する6つの空堀で構成される城の中心で、城主は楡井(にれい)氏、新納(にいろ)氏、島津氏、肝付(きもつき)氏、島津氏と変わり、交通の要衝であった志布志をめぐる興亡の歴史を示している。島津氏の日向・大隅における勢力が安定すると、その必要性を失い、一国一城令のころに廃城となり今日にいたっているが、土塁や空掘などの保存状況がよく、中世山城としての趣を現在に残している。JR日南線志布志駅から徒歩約20分。

出典 講談社国指定史跡ガイドについて 情報