江戸時代中期の浮世絵師。懐月堂派の祖。生没年不詳。江戸の人。岡沢(あるいは岡崎)氏,俗称出羽屋源七,別号を翰運子(かんうんし)といった。安度は〈やすのぶ〉あるいは〈やすのり〉と読んだか。浅草諏訪町に住んだ。浮世絵師にはめずらしく肉筆画を専門として版画を作らず,豪奢(ごうしや)な衣装を着た大柄な立美人の掛幅画を,門弟たちをも動員して量産した。肥瘦の変化に富む奔放な描線と原色的な絵具を好んで用いる明快な配色とによる類型的な美人画は,後世〈懐月堂美人〉と愛称され,18世紀初頭(元禄~正徳)の江戸で大いに流行した。1714年(正徳4)江島事件に連座して伊豆大島に配流されるが,まもなく許されて江戸へ戻ったらしく,33年(享保18)まで活躍をつづけたことがほぼ確認されている。署名に〈懐月(堂)末葉〉と冠する直接の門人に安知(長陽堂),度繁,度辰,度秀,度種がおり,時に自画へ〈安度〉の印を捺すなどして,工房制作に従ったことを証している。安知,度繁,度辰の3人には版画(墨摺絵ないし丹絵による美人画)もある。懐月堂風を追う亜流の肉筆画家は,一門のほかにも数多く生まれ,その活躍は18世紀の中葉にまで及んだ。東川堂里風,伯照軒(松野)親信,梅翁軒永春,滝沢重信,西川照信らの名が知られる。また宮川長春,奥村政信らも強い影響を受けた。
執筆者:小林 忠
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生没年不詳。江戸中期の肉筆画専門の浮世絵師。岡沢(あるいは岡崎)氏。俗称出羽屋源七、別号を翰運子(かんうんし)といい、江戸・浅草諏訪(すわ)町に住んだ。浮世絵師としては珍しく版画作品をつくらず、女性の立ち姿のみを画面いっぱいにとらえた類型的な肉筆画を、数人の門弟とともに量産して世に送り出した。このいわゆる「懐月堂美人」は、原色的な色彩と抑揚に富む激しい筆線で表され、元禄(げんろく)年間(1688~1704)から正徳(しょうとく)年間(1711~16)にわたる18世紀初頭の江戸人の、豪快で闊達(かったつ)な気風をよく反映して、大いに流行した。
しかし安度は1714年(正徳4)の絵島・生島事件に連座して伊豆大島に配流されることとなり、懐月堂工房は一挙に解体を余儀なくされることとなる。享保(きょうほう)年間(1716~36)に許されてふたたび江戸へ帰ったようだが、その晩年は明らかでない。門人に、血のつながりがありそうな長陽堂安知のほか、度繁(どはん)、度辰(どしん)、度種(どしゅ)、度秀(どしゅう)がおり、安知、度繁、度辰の3人には美人一人立ちの版画作品もある。そのほか懐月堂風を追った亜流画家として、梅翁軒永春(ながはる)、松野親信(ちかのぶ)、滝沢重信(しげのぶ)、西川照信、東川堂里風らがおり、また宮川長春、奥村政信らも強い影響を受けている。
[小林 忠]
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(大久保純一)
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…鳥居派の初代清信と2代清倍は,丹絵期の版画を場として役者絵と美人画(このころ〈嬋娟(せんけん)画〉といった)の両分野に勇壮あるいは優麗な人物像を描いた。懐月堂安度とその門弟は肉筆画に豊満な姿態と豪奢な着衣の立美人図を量産し,闊達(かつたつ)な時代精神を反映した。ことに江戸歌舞伎特有の荒事の演技を活写する鳥居派の〈瓢簞足蚯蚓描(ひようたんあしみみずがき)〉と称される描法は,役者絵独特の描法として現代にまで踏襲されている。…
※「懐月堂安度」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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