幕末期の1860年(安政7)3月3日、江戸幕府の大老井伊直弼(なおすけ)が桜田門外で暗殺された事件。桜田門は江戸城内郭門(うちぐるわもん)の一つ。将軍継嗣(けいし)問題や安政(あんせい)五か国条約(安政通商条約)の違勅調印などをめぐって大老井伊への反感は、尊攘(そんじょう)派などに強くあったが、安政の大獄の進行で一段と強まった。58年後半ころから薩摩(さつま)藩有志の間には、水戸・長州・越前(えちぜん)・因州の諸藩と提携して幕府の「除奸(じょかん)」計画が企てられていたが、翌59年になると、水戸藩と薩摩藩有志の交流が盛んとなり、水・薩提携が具体化していった。すなわち、水戸藩への「戊午(ぼご)の密勅」をめぐる勅諚(ちょくじょう)返還問題への幕府の圧力が強まるや、激派の反感は高まり、他方、薩摩藩でも激派の不満が鬱屈(うっくつ)していた。60年1月以降、水・薩両藩有志の「義挙」の盟約が結ばれ、3月3日朝、18名が雪の桜田門外に井伊の行列を襲った。この18名は、関鉄之介を総指揮者とする水戸藩士17名(関のほか、岡部三十郎、斎藤監物(けんもつ)、佐野竹之介、大関和七郎、広岡子之次郎(ねのじろう)、稲田重蔵、森山繁之介、海後磋磯之介(かいごさきのすけ)、黒沢忠三郎、山口辰之介、杉山弥一郎、増子金八、蓮田(はすだ)市五郎、鯉淵要人(こいぶちかなめ)、広木松之介、森五六郎)と薩藩士1名(有村次左衛門(じざえもん))よりなる。彼らの「斬奸(ざんかん)趣意書」では、井伊一派の斬戮(ざんりく)による幕府の改革を企図したもので、倒幕を意図したものでないことがわかる。しかし、白昼大老が暗殺されたことで、幕府の衰退が公然となり、幕末期政局の一つの転機となった。
[田中 彰]
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1860年(万延元)3月3日,水戸・鹿児島両藩の浪士が大老井伊直弼(なおすけ)を暗殺した事件。井伊の勅許を得ない条約調印と将軍継嗣問題の処理に激怒した孝明天皇は水戸藩に戊午(ぼご)の密勅を下したが,井伊は安政の大獄を断行し,反対派の一掃を企てた。1858~59年(安政5~6)反井伊の鹿児島・水戸両藩の志士の提携がほぼ成立。60年3月3日早朝,愛宕山に集合した浪士18人が桜田門外で襲撃,大老の首級をあげた。浪士側の多くは討死・自刃,逃亡後捕らえられ死罪・追放となり,2人が存命。暗殺は井伊の恣意的な政治と尊王攘夷派弾圧に対する憤りの結果だったが,大老の死は幕府権威を失墜させ,幕末政情を転換させる契機となった。
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…江戸後期の薩摩藩士。諱(いみな)は兼清。海江田(かえだ)信義の弟。水戸藩士高橋多一郎らと安政の大獄に反発して尊王攘夷の義兵を挙げようと謀り,その手初めに1860年3月3日大老井伊直弼を桜田門外に要撃してその首をあげたが,重傷のため自刃。兄雄助は襲撃の成功を見届けて高橋とともに京都に走り兵を挙げようとしたが,捕らわれて国元で自刃を命ぜられた。【原口 虎雄】…
…公卿とその家臣,大名とその家臣,幕臣,尊攘派の志士など処罰者は100人をこえ,吉田松陰など7人の刑死者を出した。とくに厳しい弾圧をうけた水戸藩では,直弼への反感が強まり,60年3月3日,直弼は江戸城桜田門外で水戸浪士らに登城途中を襲撃され殺害された(桜田門外の変)。直弼は,国学,古学,兵学,居合,茶道,和歌などにも,すぐれた才能を発揮した。…
※「桜田門外の変」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
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