1860(安政7)年の旧暦3月3日朝、欧米との修好通商条約調印を強行した江戸幕府の大老井伊直弼が、江戸城桜田門前で水戸、薩摩藩の浪士らに暗殺された事件。強引な条約調印や将軍の跡継ぎ決定、安政の大獄で尊王
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1860年(万延1)3月,尊王攘夷派の水戸浪士らが,大老井伊直弼を江戸城桜田門外に襲い,殺害した事件。1858年(安政5)6月,井伊は勅許を得られないまま日米修好通商条約に調印した。これに対し朝廷は,同年8月,幕府の条約調印は遺憾である旨を記した勅諚を水戸藩へ下した(戊午(ぼご)の密勅)。この前例のない事態に直面し,幕藩権力の解体の危機を感じた井伊は,9月から,尊攘派の公卿や志士,水戸藩士などの反対勢力に徹底した弾圧をおこなった(安政の大獄)。これと並行して,井伊は,水戸藩から勅諚を返上させるように朝廷に圧力をかけ,この結果,59年12月に,勅諚返上の勅命が水戸藩へ下った。水戸藩内では,勅諚を返上すべきだとする鎮派と,これに反対する激派との間に,激しい政争がおこなわれたが,ついに鎮派の主張が通った。激派の水戸藩士金子孫二郎,高橋多一郎,関鉄之介らと,薩摩藩士有村次左衛門との間では,安政の大獄がはじまったころから,井伊の暗殺計画がねられていたが,水戸藩論が勅諚返上に傾くと,この計画は急速に具体化した。それによれば,水戸藩士50人は,井伊の襲撃と横浜の外国商館焼打ちとを実行し,同時に薩摩藩士3000人が京都の警衛にあたり,東西相応じて幕府の改造を断行するというものであった。しかし,最終段階では井伊の襲撃のみにしぼられ,関を総指揮とする水戸藩士17人と薩摩藩士の有村とは,いずれも脱藩して,ひそかに江戸へ集まった。彼らは,60年3月3日,井伊が上巳(じようし)の嘉節(桃の節句)の賀詞を述べるために登城してくるのを,桜田門外に待伏せし,その行列に斬りかかり,有村が井伊の首級をあげた。彼らの携えていた〈斬奸趣意書〉には,井伊の罪状として,条約違勅調印と安政の大獄での尊攘派への弾圧とがあげられていた。幕府は政局の動揺をおそれ,しばらく井伊の死を秘した。この事件ののち,幕府政治は公武合体の方向へ転換していった。
執筆者:小野 正雄
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幕末期の1860年(安政7)3月3日、江戸幕府の大老井伊直弼(なおすけ)が桜田門外で暗殺された事件。桜田門は江戸城内郭門(うちぐるわもん)の一つ。将軍継嗣(けいし)問題や安政(あんせい)五か国条約(安政通商条約)の違勅調印などをめぐって大老井伊への反感は、尊攘(そんじょう)派などに強くあったが、安政の大獄の進行で一段と強まった。58年後半ころから薩摩(さつま)藩有志の間には、水戸・長州・越前(えちぜん)・因州の諸藩と提携して幕府の「除奸(じょかん)」計画が企てられていたが、翌59年になると、水戸藩と薩摩藩有志の交流が盛んとなり、水・薩提携が具体化していった。すなわち、水戸藩への「戊午(ぼご)の密勅」をめぐる勅諚(ちょくじょう)返還問題への幕府の圧力が強まるや、激派の反感は高まり、他方、薩摩藩でも激派の不満が鬱屈(うっくつ)していた。60年1月以降、水・薩両藩有志の「義挙」の盟約が結ばれ、3月3日朝、18名が雪の桜田門外に井伊の行列を襲った。この18名は、関鉄之介を総指揮者とする水戸藩士17名(関のほか、岡部三十郎、斎藤監物(けんもつ)、佐野竹之介、大関和七郎、広岡子之次郎(ねのじろう)、稲田重蔵、森山繁之介、海後磋磯之介(かいごさきのすけ)、黒沢忠三郎、山口辰之介、杉山弥一郎、増子金八、蓮田(はすだ)市五郎、鯉淵要人(こいぶちかなめ)、広木松之介、森五六郎)と薩藩士1名(有村次左衛門(じざえもん))よりなる。彼らの「斬奸(ざんかん)趣意書」では、井伊一派の斬戮(ざんりく)による幕府の改革を企図したもので、倒幕を意図したものでないことがわかる。しかし、白昼大老が暗殺されたことで、幕府の衰退が公然となり、幕末期政局の一つの転機となった。
[田中 彰]
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1860年(万延元)3月3日,水戸・鹿児島両藩の浪士が大老井伊直弼(なおすけ)を暗殺した事件。井伊の勅許を得ない条約調印と将軍継嗣問題の処理に激怒した孝明天皇は水戸藩に戊午(ぼご)の密勅を下したが,井伊は安政の大獄を断行し,反対派の一掃を企てた。1858~59年(安政5~6)反井伊の鹿児島・水戸両藩の志士の提携がほぼ成立。60年3月3日早朝,愛宕山に集合した浪士18人が桜田門外で襲撃,大老の首級をあげた。浪士側の多くは討死・自刃,逃亡後捕らえられ死罪・追放となり,2人が存命。暗殺は井伊の恣意的な政治と尊王攘夷派弾圧に対する憤りの結果だったが,大老の死は幕府権威を失墜させ,幕末政情を転換させる契機となった。
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…江戸後期の薩摩藩士。諱(いみな)は兼清。海江田(かえだ)信義の弟。水戸藩士高橋多一郎らと安政の大獄に反発して尊王攘夷の義兵を挙げようと謀り,その手初めに1860年3月3日大老井伊直弼を桜田門外に要撃してその首をあげたが,重傷のため自刃。兄雄助は襲撃の成功を見届けて高橋とともに京都に走り兵を挙げようとしたが,捕らわれて国元で自刃を命ぜられた。【原口 虎雄】…
…公卿とその家臣,大名とその家臣,幕臣,尊攘派の志士など処罰者は100人をこえ,吉田松陰など7人の刑死者を出した。とくに厳しい弾圧をうけた水戸藩では,直弼への反感が強まり,60年3月3日,直弼は江戸城桜田門外で水戸浪士らに登城途中を襲撃され殺害された(桜田門外の変)。直弼は,国学,古学,兵学,居合,茶道,和歌などにも,すぐれた才能を発揮した。…
※「桜田門外の変」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
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