歌舞伎狂言。世話物。河竹黙阿弥作。1875年(明治8)1月28日から東京新富座で,大岡越前守を5世坂東彦三郎,天一坊を5世尾上菊五郎,山内伊賀亮を初世市川左団次によって初演。享保年間(1716-36),南品川の山伏常楽院方に寄寓する源氏坊天一という者が,時の将軍8代吉宗の落胤と名乗って,浪人を集め,人々から金を集めた。代官伊奈半左衛門が取調べの結果,贋者と判明,梟首になったという。この事件は,大岡越前守と結びつけられ,〈大岡仁政録〉の一つになり,講談師神田伯山が《天一坊大岡政談》として連夜読みつぎ,大ヒットした。中でも天一坊が乗っていた網代の駕籠の詮議から,越前守と伊賀亮が弁舌をたたかわす〈網代問答〉が最大のやま場で,伯山は〈では,明晩は網代問答を〉といって,幾晩も客をつり,ついにはその大入りで〈天一坊蔵〉を建てたという。
この伯山のヒットに刺激され,歌舞伎でも,4世中村歌右衛門,4世市川小団次らの名優が〈天日坊〉の名で劇化を試みた。本作品は,その集大成として黙阿弥が講談に忠実に劇化。別名題《天一坊大岡政談》,通称《天一坊》。紀州加田浦のお三婆は,娘が若き日の吉宗の愛を受けて妊娠,母子ともに死んだが,吉宗のお墨付と短刀を持っている。それを知った感応院の弟子法沢が,お三婆を殺し,御落胤になりすまして江戸へ乗り込んでくる。南町奉行大岡越前守は,贋者とにらんだが証拠がない。天一坊の軍師山内伊賀亮との〈網代問答〉で,伊賀亮の弁舌に敗れた越前守は,死を賭して水戸黄門に10日の猶予を願い,家臣を紀州へ調査に派遣した。必死の捜査で生き証人が江戸へ来て,天一坊は有罪になる。前半は,白面の青年法沢の悪党ぶりが見どころ。後半は〈網代問答〉から,〈紀州調べ〉,越前守があわや切腹というところへ家臣が戻る〈越前守の役宅〉から大詰の〈白州〉がみものである。
→大岡政談物
執筆者:渡辺 保
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
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