折居村(読み)おりいむら

日本歴史地名大系 「折居村」の解説

折居村
おりいむら

[現在地名]韮崎市清哲町折居せいてつまちおりい

入戸野につとの村の南にあり、村域は釜無川右岸の氾濫原から西部山麓に及んだ。山腹から麓に下りた地に位置することが地名の由来と伝え、折井とも記した。西部の山麓を徳島とくしま堰が流れる。のちに武川衆の構成員となった折井(折居)氏は甲斐源氏の一族青木十郎時光の息子十郎時次が当地に居住して姓としたのが始まりとされる(寛政重修諸家譜)。天正壬午の乱の最中の天正一〇年(一五八二)八月一七日、先に本知を改替された折井市左衛門尉次昌は徳川家康から「折井南分弐拾貫文」「折井北分拾七貫四百文」などもとの本領を宛行われ、戦功に励むよう命じられている(「徳川家印判状写」御庫本古文書纂)。同年一二月七日には折井南分三五貫文・折井内五貫文などを安堵されている(「徳川家康判物写」同古文書纂)


折居村
おりいむら

[現在地名]笹神村折居

権現ごんげん山と虚空蔵こくぞう山が作る扇状地の扇頂に位置する谷口集落で、村内を折居川が貫流し、北は中居新なかいしん(現新発田市)、南は女堂おんなどう村に接する。弘安一〇年(一二八七)一〇月八日の鎌倉将軍家(惟康親王)政所下文(大見水原氏文書)に「女田寺領下居在家」とみえる下居は当地のことと思われる。同下文によれば、白河しらかわ庄のうちこれらを除いた山浦やまうら四ヵ条などの地頭職が大見行定から子息家政へ譲渡されている。


折居村
おりいむら

[現在地名]三隅町折居、浜田市折居町

平原ひらばら村の北に位置し、日本海に臨む。東は折居川を境に西にし(現浜田市)、西は西河内さいごうち村。元折居もとおりい(現浜田市)吉浦よしうら今浦いまうらなどの通称がある。山陰道が通る。日本海に面してはいるが良港はなく、沖合津摩つま(現浜田市)が漁業権を有した。元和五年(一六一九)の古田領郷帳では高一四二石余、年貢高は田方六六石余・畑方一〇石余。なお宝暦九年(一七五九)の三隅組村々改帳(鈴木家文書)では慶長八年(一六〇三)の高一四二石余、承応二年(一六五三)検地で出高があり高一六七石余になった。寛政元年(一七八九)の家数三八・人高二五三。折居浜には廻船二艘・漁船三艘があり、廻船は庄屋清井家の持船であった(「巡見使案内懐中記」福原家文書)


折居村
おりいむら

[現在地名]柏崎市折居

女谷おなだに村の南、南の背後は鷲の巣わしのす山・黒姫くろひめ山の山稜。集落は山稜に向かって餅粮もちろう拝庭はいにわ北向きたむかい上向うわむかい阿相島あそうじまがある。柏崎と松之山まつのやま(現東頸城郡松之山町)を結ぶ道が女谷村より小岩こいわ峠越で通じる。近世の支配は女谷村と同じ。正保国絵図に高五六石余。天和三年(一六八三)の越後中将御領覚では高一七九石五斗余のほかに八石一斗余の新田がある。同年の検地帳(佐藤重雄氏蔵)では本田一〇町八反余・本畑八町五反余・山九町一反余、屋敷四一筆。


折居村
おりいむら

[現在地名]名立町折居

丸田まるだ村の南。名立川の氾濫原と段丘、および支流まえ川の谷を利用して耕作し集落する。正保国絵図に高七九石余とある。天和三年郷帳では高一〇二石余である。県道から西方へ約六〇〇メートル上ったところに雁田かりた神社がある。祭神は建御名方命・高御産霊命・神御産霊命。宝永年間(一七〇四―一一)百姓久左衛門が陰陽の形をした二個の自然石を掘起こした。庭石がわりにしていたところ家族が次々と病気になったため、もとの畑に埋戻した。久左衛門の子、太助の代になった享保三年(一七一八)、夢枕に二人の貴人が現れ「われらを祀れば産霊の幸を授けよう」と告げたので、二つの石を掘起こし洗い清めてここに祀りなおした。


折居村
おりいむら

[現在地名]浜田市折居町、那賀郡三隅みすみ町折居

折居川を境に東は西にし村で、南は室谷むろだに村・東平原ひがしひらばら(現三隅町)、西は西河内にしごうち村。北は日本海に面するが、良港をもたない農村で、沖合は津摩つま村が漁業権を有した。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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