中国,北魏の初代皇帝,太祖道武帝。在位398-409年。祖父拓跋什翼犍の死を契機に拓跋部は危機に襲われたが,拓跋珪は母方の賀蘭部の後見によって国家の再建をはかり,386年(登国1)代王を称した。以後約10年間長城地帯の制覇につとめたのち,南進して後燕を攻撃,397年(皇始2),その首都中山を攻略した。翌年平城で帝位につき,国号を魏と改めた。山西,河北を手中に収めた北魏は,こうして中原王朝としての第一歩をふみ出した。拓跋珪は崔宏(玄伯)など漢人名族出身の人材を重用して国家体制の整備につとめた。また部落解散を断行して族長の部民に対する支配権を剝奪し,従来の五胡諸国家を一歩ぬきん出た中央集権国家を目ざした。しかしこうした急進策は北来の部族民の反感を買い,加えて寒食散の中毒症状のためはなはだしい情緒障害を起こして臣下を殺したので,政情不安を招き,その子清河王紹に弑された。
執筆者:谷川 道雄
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中国、北魏(ほくぎ)初代の皇帝(在位386~409)。諡号(しごう)は道武帝。廟号(びょうごう)は太祖。前秦(ぜんしん)に滅ぼされた代王拓跋什翼犍(じゅうよくけん)の孫。淝水(ひすい)の敗戦で前秦が瓦解(がかい)すると、386年代王の位につき、ついで国号を魏と改め盛楽(内モンゴル自治区)に都を置いた。後燕(こうえん)を破って中原(ちゅうげん)に進出すると、398年帝位に登り平城(大同)に遷都した。帝は後燕(こうえん)系を主とする漢人官僚を用いて、官制、儀礼、律令(りつりょう)などの諸制度を定め、大規模な徙民(しみん)(住民を他郷に移す)を行って北魏の基礎を固めた。部族解散を断行して軍事力の根幹たる北方遊牧民を部族長の統率下から離して帝権に直結したことは、他の五胡(ごこ)諸国と異なる点として注目される。晩年には功臣を多く誅殺(ちゅうさつ)するなど独裁化し、子の清河王紹に殺された。
[窪添慶文]
371~409(在位386~409)
北魏の建国者。廟号は太祖,諡は宣武のち道武帝。前秦の崩壊に乗じて拓跋部を統一,魏王の位についた。396年皇帝と称し,翌年河北の後燕を滅ぼし,平城(大同)を都とした。部族制の解散を断行し,中国的王朝を創始した。
出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報
「道武帝[北魏]」のページをご覧ください。
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
…拓跋部の故地は興安嶺北部と見られ,西遷して盛楽(内モンゴルのホリンゴール)を根拠に諸部族の盟主となり,部族連合によってなる代王国を建設,魏・晋両王朝とも交渉をもった。西晋の滅亡過程には山西方面から南進を試み,397年代王拓跋珪は後燕の首都中山を攻略して河北一帯を領有,その翌年平城(山西省大同)を首都として魏帝国を建てた(道武帝)。これよりさき部落解散を断行して族長層の部落統率権を君主に集中したが,旧部族民はその後も漢族と異なるあつかいを受け,国軍の精鋭として征戦に活躍した。…
※「拓跋珪」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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