拓跋氏
たくばつし
北アジアの遊牧民、鮮卑(せんぴ)種中の一部族。3世紀なかば拓跋力微(りきび)のとき史書に姿を現し、盛楽(中国、内モンゴル自治区)に根拠を置いた。晋(しん)は永嘉(えいか)の乱に苦しむと、その援助を期待して拓跋猗盧(いろ)を310年、代公に封じて山西省北部の地を与え、315年には代王に封じた。代国はのち年号をたてて晋の冊封(さくほう)下より離れ一時国威を伸ばしたが、376年前秦(ぜんしん)に敗れていったん滅び、386年拓跋珪(けい)のもとで北魏(ほくぎ)王朝として復興した。その原住地は大興安嶺(だいこうあんれい)であったと考えられ、そこからは、北魏の太武帝が使者を派遣して祀(まつ)った鮮卑族の祖廟(そびょう)の石室が1980年に発見されている。なお、5世紀末の孝文帝の一連の改革の一環として、拓跋氏は元(げん)氏と改姓された。
[窪添慶文]
出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例
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拓跋氏
たくばつし
Tuo-ba-shi; To-pa-shih
中国東北の 洮兒河上流域から興り,華北に入って北魏を建てた鮮卑の一氏族。2世紀後半頃から勢力をもちはじめ,部族連合の中核的氏族としての地位を確保した。その頃陰山の南に移住し,拓跋力微 (りきび) はさらに南下して盛楽 (内モンゴル) に都をおき,遊牧民の諸氏族を統合して多数の兵力をもつにいたった。力微ののち拓跋猗廬 (いろ) は晋を助けて匈奴と戦った功により代公に封じられ,山西北部を領し,やがて代王となった。 338年拓跋什翼 犍 (じゅうよくけん) が建国と建元して独立した。建国 39 (376) 年前秦の苻堅に破られ,一時壊滅に瀕した。しかし前秦が淝水 (ひすい) の戦いで敗れると,拓跋珪 (→道武帝) は旧部民を糾合して魏王と称し,皇始1 (396) 年にはさらに皇帝と称した。彼によって北魏王朝の基礎がつくられた。のち孝文帝は拓跋の姓を中国風に元と改めた。
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拓跋氏【たくばつし】
鮮卑(せんぴ)の一氏族,北魏(魏)を建国した帝室の姓。その故地は大興安嶺北部甘河上流(黒竜江省)であったことが近年判明している。2世紀後半から鮮卑の最強氏族となり,4世紀初め中国の北辺に進出。388年拓跋珪〔371-409〕は王位につき,398年皇帝を称す。440年華北を統一。496年中国風の〈元〉氏に改めた。
→関連項目魏晋南北朝時代|柔然|西夏
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拓跋氏 (たくばつし)
Tuò bá shì
鮮卑族の一部族で,中国北魏王朝を建設した。拓とは鮮卑語で土を意味し,跋は君王の意というが,つまびらかでない。拓抜,托抜,託抜などとも書く。その故地は大興安嶺北部甘河上流(黒竜江省)であったことが最近の調査で判明した。同地方よりモンゴル高原に西遷,塞北を制覇して部族連合国家代国を建設,4世紀末北魏を建てた。のち孝文帝の漢化政策により北魏帝室は拓跋姓を元氏と改めた。後世元氏を称する者には,その子孫が多い。
執筆者:谷川 道雄
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拓跋氏
たくばつし
鮮卑 (せんぴ) の一氏族
原住地は満州洮児川流域の興安嶺寄りの地。386年拓跋珪(道武帝)が北魏を建設。孝文帝は中国化政策の一環として姓を元氏と改めた。
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世界大百科事典(旧版)内の拓跋氏の言及
【モンゴリア】より
…このうち鮮卑は3世紀前半に分裂し,有力な部族が各地に割拠した。なかでも[拓跋氏](たくばつし)はその本拠地を内モンゴルからしだいに長城内にうつし,のちに北魏を建て,中国北部を支配した。4世紀後半南下した鮮卑のあとをうけてモンゴリアを支配したのは[柔然](じゆうぜん)である。…
※「拓跋氏」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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