中国、漢代の儒学者、文人。蜀(しょく)郡成都(せいと)(四川(しせん)省)の人。字(あざな)は子雲(しうん)。前漢、新(しん)、後漢(ごかん)の3王朝に仕えた。学者として高名である。著書としては『易経』に擬した『太玄経(たいげんきょう)』と、『論語』を模した『法言(ほうげん)』が有名である。また司馬相如(しばしょうじょ)の影響を受けて賦(ふ)をよくした。『太玄経』は『易経』の六四卦(か)三八四爻(こう)に倣って八一首(しゅ)七二九賛(さん)とし、新しい占筮(せんぜい)書とした。その根本原理は老子の道の思想より得た玄である。その生成を説くに、一玄が分かれて三方(ほう)となり、三方が九州(しゅう)となり、九州が二七部となり、二七部が八一家(か)となるとする。これを人事にあてて、三方は三公、九州は九卿(けい)、二七部は大夫(たいふ)、八一家は元士にかたどり、一玄を君主としてこれを統(す)べるものと説いた。『法言』は『論語』に倣い、巻1の「学行」から巻10の「孝至(こうし)」に及んで、聖人を尊び、王道を説いた。漢・唐の諸儒は揚雄を高く評価したが、宋(そう)代の程伊川(ていいせん)(程頤(ていい))や朱熹(しゅき)(朱子)が、聖人の書の模作を難じ、性善悪混説を唱え、3朝に仕えたことなどを批判したため、それ以後の儒者も多くこれに倣った。
[安居香山 2016年1月19日]
『鈴木由次郎訳『太玄経』(1972・明徳出版社・中国古典新書)』
中国,前漢末の思想家,文学者。蜀(四川省成都)の人。楊雄と書かれる場合もある。字は子雲。若いころから口吃で,学問を好み沈思を旨とした。およそ富貴や名声には関心がなく,司馬相如や屈原の賦を好み,みずからもまた賦を作った。屈原の〈離騒〉にいたく感激したが,みずからの不遇を嘆いて自殺した屈原の生き方に反論して,有名な《反離騒》を著した。年41にして初めてその文才を認められた。時に成帝の奢侈(しやし)を風刺した〈甘泉賦(かんせんふ)〉を奏上したところ,帝はこれを珍重したという。その後,《易》になぞらえて《太玄経(たいげんけい)》を著し,無欲で心静かな生き方を守ろうとした。また,《論語》を模した《法言(ほうげん)》では,王道を論じて道徳による政治を説いた。当時の学者の中には彼の才能を絶賛する者も多かったが,晩年,奪者王莽(おうもう)に仕えたことや,王の即位に直接関与したのではなかったものの,彼に媚びる文を作ったことで世間の非難をあびた。
執筆者:串田 久治
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
…中国,前漢の揚雄が《易経》にまねてつくった占いの書。易の六十四卦にたいして八十一首,六爻(ろつこう)にたいして九賛を設けるといったたぐいで,暦学,天文学,陰陽五行説などと結合した漢代易学の成果を吸収しつつ,《老子》に由来する〈玄〉に根本原理をもとめた。…
…中国,前漢の揚雄が著した中国最初の方言辞典。《輶軒使者絶代語釈別国方言》が正式の名称で,《別国方言》《方言》と略称される。…
※「揚雄」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
年齢を問わず、多様なキャリア形成で活躍する働き方。企業には専門人材の育成支援やリスキリング(学び直し)の機会提供、女性活躍推進や従業員と役員の接点拡大などが求められる。人材の確保につながり、従業員を...
10/29 小学館の図鑑NEO[新版]動物を追加
10/22 デジタル大辞泉を更新
10/22 デジタル大辞泉プラスを更新
10/1 共同通信ニュース用語解説を追加
9/20 日本大百科全書(ニッポニカ)を更新