日本大百科全書(ニッポニカ) 「文保の和談」の意味・わかりやすい解説
文保の和談
ぶんぽうのわだん
鎌倉末期に行われた後深草(ごふかくさ)天皇系持明院(じみょういん)・亀山(かめやま)天皇系大覚寺(だいかくじ)両統による皇位継承についての協議。両統の争いは鎌倉中期以降続いていたが、早くから両統迭立(てつりつ)の方針を示していた幕府の斡旋(あっせん)で、1317年(文保1)4月以降、両統代表の持明院統伏見(ふしみ)上皇と大覚寺統後宇多(ごうだ)法皇との間で協議が行われた。この和談では、
(1)次は皇太子尊治(たかはる)親王(大覚寺統)が即位する、
(2)在位期間は10年とし、両統交替する、
(3)次の皇太子は邦良親王(大覚寺統)、その次を量仁(ときひと)親王(持明院統)とする、
の3点が実質的には幕府によって提案された。しかし(3)については大覚寺統に有利なため持明院統が不満をもち一致せず、明確な協定には至らなかった。幕府の関与によって翌年、持明院統の花園(はなぞの)天皇が譲位し、尊治が後醍醐(ごだいご)として即位した。しかし、両統の対立は収まらず、のち幕府の干渉を不満とした後醍醐天皇は討幕を決意していった。
[佐々木久彦]