1875年に刊行された福沢諭吉の主著。彼の著作のうち最も理論的組織的で緻密だが,それを生み出したのは福沢の危機意識であり,全編を通じ新しい精神の提唱が古いそれへの批判と織り合わされて,まれに見る現実感と説得力をもたらしている。〈文明開化〉賛美の風潮のさなかに,国際社会への編入と文化接触が日本における国民国家の形成を阻害しているのを見抜いた福沢が,社会的激動と思想的混乱を突破して日本における〈文明〉の〈始造〉を導く自前のプログラムを構想したのが本書である。彼も当面の状況において国民的独立の確保のために最も重要な手段を西洋〈文明〉の受容に求める。しかしそのためには同時代の〈文明〉受容の構造を批判し,〈文明〉の概念を再定義することから出発せねばならない。福沢は〈文明〉受容における〈外形の事物〉偏重に〈内に存する精神〉からの受容を対置し,〈文明〉とは〈智徳の進歩〉,しかも少数エリートのそれでなく〈人民一般の智徳〉としてとらえる(1,3章)。こうした〈一国人民の智徳〉の進歩には複雑な中にも一定の〈定則〉があり,新しい学問の方法によって発見可能である(4,5章)。彼は日本に根強い道徳偏重に対して〈徳〉と〈智〉の機能を分析区別したうえ,〈文明〉受容における〈智〉優先を説き,人間社会の進歩とともに〈徳〉の機能の比重が低下する傾向を明らかにする(6,7章)。〈文明〉を〈一国人民の気風〉としてとらえる観点は,〈精神〉をはぐくむ社会構造の分析を導き,日本のそれは一方では西欧のそれと,他方では中国のそれと比較分析される(8,9章,および2章)。〈文明〉の〈精神〉の核心は知的主体の方法であり,これに抽象的な定義を下すよりも《文明論之概略》全編の構成から具体的記述のすみずみまでをこの方法原理で貫いている。問題状況において具体的に課題を構成しそれに照らして判断し選択する知性,課題に適合的な目的手段の連鎖を構成して状況を不断に作り変えてゆく方法がそれであり,1,2章と10章はこのライトモティーフの導入と終結として緊密に対応している。〈文明〉の進歩と国民的独立とは,長期的な課題の設定と短期的なそれの視点の転換にしたがって目的と手段の位置を転換するのであり,長期的な視点は福沢の歴史哲学に連なっている。
執筆者:松沢 弘陽
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
日本最初の文明論で福沢諭吉の最高傑作。1875年(明治8)刊。福沢が『学問のすゝめ』の啓蒙(けいもう)家的態度に反省を加え始めたときの作品である。日本文明を歴史的に反省して、その停滞性は権力偏重にあると批判し、それを克服して自由な交流・競合を図るなかに文明は発達すると指摘、文明を野蛮・未開・文明の発達段階論でとらえた史観を提示するとともに、さしあたっては西洋文明を目的にすべきだと説きつつも、西洋文明もまた発達途次のものであるとした。ことに西洋文明を他国の侵略のうえに築かれた存在であるとする指摘には瞠目(どうもく)させられるが、また今日では国家独立のためにやむをえぬと国家エゴイズムの容認をも示している。
[広田昌希]
『『文明論之概略』(岩波文庫)』
福沢諭吉の著した啓蒙的文明論。6巻。1874年(明治7)から執筆し,75年8月刊。文明とは国民一般の智徳の進歩であるとし,日本の文明を発達させるために,より進歩した西洋文明の精神を学ぶことを求めた。従来政治権力の干渉や儒教・仏教の徳治主義が文明を停滞させたと批判。日本の文明を西洋文明の程度にまで発展させ,文明を手段にして西洋近代国家と競合しうる「国の独立」を達成すべきことを主張した。「福沢諭吉全集」「岩波文庫」所収。
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出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
…この主題をめぐって,日用に役立たない旧来の学問を否定して,〈実学〉が提唱されたり,人間平等の観念や契約説的国家論が説かれたり,政府が暴政を行う場合,人民はいかに行動すべきかが論じられたり(日本でこの問題を最初に論じたのは本書であろう),西洋の文物を導入する際,文明の外形ではなくて,文明の精神を摂取する必要があると説かれ,西洋の文物思想を盲目的に崇拝することが否定されたりしている。本書は同じ福沢の《文明論之概略》とともに,明治初年の啓蒙思想を代表する傑作である。【植手 通有】。…
※「文明論之概略」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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