斎藤月岑(読み)サイトウゲッシン

デジタル大辞泉 「斎藤月岑」の意味・読み・例文・類語

さいとう‐げっしん【斎藤月岑】

[1804~1878]江戸末期の文人。江戸神田名主。名は幸成ゆきなり通称、市左衛門。和漢の学に通じ、祖父の撰、父の補修による「江戸名所図会」を刊行。著「武江年表」「東都歳事記」「声曲類纂るいさん」など。

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精選版 日本国語大辞典 「斎藤月岑」の意味・読み・例文・類語

さいとう‐げっしん【斎藤月岑】

  1. 江戸末期の著述家。江戸神田の人。名は幸成。通称市左衛門。月岑は号。町名主。和漢の学を修めて博覧強記。祖父幸雄の撰、父幸孝の補修した「江戸名所図会」を校訂し出版。他に「東都歳事記」「武江年表」などの著作がある。文化元~明治一一年(一八〇四‐七八

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「斎藤月岑」の意味・わかりやすい解説

斎藤月岑
さいとうげっしん
(1804―1878)

幕末維新期の文人。通称市左衛門、幸成(ゆきなり)、幼名を鉞三郎(えつさぶろう)という。号は松濤軒(しょうとうけん)、翟巣(てきそう)、白雲堂。幸孝(ゆきたか)の四男。斎藤家は美濃(みの)(岐阜県)国主斎藤龍基(たつもと)の子孫で、代々江戸・神田雉子(きじ)町の名主として6か町を支配、また神田青物市場を監督して野菜の上納をつかさどった。祖父幸雄(ゆきお)、父幸孝(ゆきたか)の遺志を継いで稿本『江戸名所図会』を補正し、1834年(天保5)正月、全20巻のうち前編10冊を刊行。36年正月に後編10冊を出版した。画(え)は長谷川雪旦(せったん)、雪堤(せってい)。実に斎藤家3代の刻苦鏤骨(るこつ)の大業が、月岑によって達成されたのであった。その他の著書に『東都歳事記』5巻、『声曲類纂(せいきょくるいさん)』6巻、『武江年表』12巻など。明治11年3月6日没、享年75。墓所は浅草法善寺。

[水江漣子]


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改訂新版 世界大百科事典 「斎藤月岑」の意味・わかりやすい解説

斎藤月岑 (さいとうげっしん)
生没年:1804-78(文化1-明治11)

江戸末期の著述家。《江戸名所図会》の完成者として著名であるが,家は江戸草分けの名主で,代々市左衛門を襲名し,月岑は9代目。内神田の雉子町に住し,付近6ヵ町を支配し,町見廻り,町触伝達証文の奥書・加印,祭礼執行など繁多のうちにあって《東都歳事記》《武江年表》《声曲類纂》など多くの著述を残し,近世研究に資するところが多い。
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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「斎藤月岑」の意味・わかりやすい解説

斎藤月岑
さいとうげっしん

[生]文化1(1804).江戸
[没]1878.3.6. 東京
江戸時代後期~明治の文人。名,幸成。月岑は号。斎藤家は神田の名主の家柄で月岑はその9代目。日尾荊山に漢学を,上田兼憲に国学を,谷口月窓に絵画を学んだ。祖父幸雄が編述し,父幸孝が補修した『江戸名所図会』7巻 20冊の上梓を志し,天保5 (1834) ~7年に刊行。自身の著述としては,その博覧強記を生かした『東都歳事記』 (38) ,『声曲類纂』『武江年表』などがある。

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百科事典マイペディア 「斎藤月岑」の意味・わかりやすい解説

斎藤月岑【さいとうげっしん】

幕末,江戸神田雉子(きじ)町の名主。字は幸成(ゆきしげ),通称市左衛門。国学,漢学,絵画の素養があり,父祖3代の心血を注いだ《江戸名所図会》をはじめ《武江年表》《東都歳事記》《声曲類纂》など著書多数。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「斎藤月岑」の解説

斎藤月岑 さいとう-げっしん

1804-1878 江戸後期-明治時代の国学者。
文化元年生まれ。斎藤県麿(あがたまろ)の子。代々江戸神田雉子(きじ)町の名主。上田八蔵に国学を,日尾荊山(けいざん)に漢学を,谷口月窓に画をまなぶ。祖父長秋と父の手がけた「江戸名所図会(ずえ)」を刊行した。明治11年3月6日死去。75歳。名は幸成(ゆきなり)。通称は市左衛門。別号に翟巣(てきそう)など。編著に「東都歳事記」「武江年表」など。

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世界大百科事典(旧版)内の斎藤月岑の言及

【赤坂】より

…そのうち1632年より幕末まで存在した紀州徳川家上屋敷は最も広大なものであった。【松崎 欣一】 明治維新当初,神田雉子町の名主斎藤月岑(げつしん)は,その日記に,溜池を舟で渡って豊川稲荷へ参詣する寂しさを記しているが,それは赤坂から青山へかけての武家屋敷の荒廃によるところが大きかった。〈塀は頽れ家は壊れて寂莫たる有様〉(《太陽》1898)は,女の一人歩きは昼間でも危険だといわれる状況であった。…

【浮世絵類考】より

…1790年(寛政2)ころ大田南畝が原撰し,1800年笹屋邦教が〈始系〉を付記,さらに02年(享和2)山東京伝が〈追考〉を加え,文政年間(1818‐30)式亭三馬が増補した。以上をもとに,33年(天保4)渓斎英泉が《無名翁随筆》(別名《続浮世絵類考》),44年(弘化1)斎藤月岑が《増補浮世絵類考》,68年(明治1)竜田舎秋錦が《新増補浮世絵類考》を,それぞれ書きついでいる。しかし上記の各書はいずれも成立当時に出版されることなく,写本として伝えられたため,多くの異本が生まれた。…

【江戸名所図会】より

…江戸府内にとどまらず,北は大宮,西は日野,東は船橋辺に至るまで筆を及ぼし,名所旧跡,社寺仏閣などの沿革と現況を,実地踏査にもとづき記述,雪旦の描く詩情豊かな挿図とともに史料的価値が高く,幕末期の江戸風俗を知るうえに欠くことのできぬ一史料となっている。斎藤月岑【小池 章太郎】。…

【片岡寛光】より

…江戸末期の国学者。江戸の人。通称周輔,権太郎,号は郁子園(むべぞの),蔦垣内。医師所尊光の子として生まれたが,神田佐久間町の名主片岡家の養子となった。晩年の村田春海に入門し,その才を現す。本間游清,屋代弘賢,高田与清らと交友。また,《江戸名所図会》の著者斎藤幸孝・幸成(月岑(げつしん))父子とは住居が近く同職のためとくに親交し,その著にも序文を寄せた。門人も多かったが30歳余で没す。【南 啓治】…

【声曲類纂】より

…浄瑠璃を中心とする江戸時代音楽史の書。編者は斎藤月岑(げつしん)。1847年(弘化4)刊。…

【東都歳事記】より

…近世後期における江戸および近郊の年中行事を月順に配列し,略説した板本。斎藤月岑(げつしん)編。長谷川雪旦・雪堤父子の挿絵入り。…

【武江年表】より

…江戸300年にわたる精細な年表。斎藤月岑(げつしん)著。正編8巻8冊,続編4巻4冊。…

※「斎藤月岑」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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