新日吉神宮(読み)いまひえじんぐう

日本歴史地名大系 「新日吉神宮」の解説

新日吉神宮
いまひえじんぐう

[現在地名]東山区妙法院前側町

阿弥陀あみだヶ峰山麓、豊国ほうこく廟への参道南に位置する。大己貴おおなむち命・大山咋おおやまくい神・大山咋神荒魂・菊理姫くくりひめ命・田心比売たごりひめ命・賀茂玉依比売かものたまよりひめ命・賀茂玉依比売荒魂・後白河天皇を祭神とし、相殿には素戔嗚すさのお尊・大年おおとし神を祀る。「新比叡」(平家物語)、「今日吉」(今日吉社旧記)などとも記した。現在の例祭は一〇月一六日。旧府社。

〈京都・山城寺院神社大事典〉

〔勧請・造営〕

永暦元年(一一六〇)一〇月一六日、後白河法皇の院御所法住寺ほうじゆうじ殿(現東山区)鎮守として近江日吉社から勧請され、御所の北東に祀られた。「百錬抄」同日条は「奉日吉御体於東北新宮、同上皇御願也」と記すが、旧地は現在地よりやや南の東山区今熊野瓦いまぐまのかわら坂にあったと推定され、明暦元年(一六五五)には京都智積ちしやく院の北に移り、現在地に社地が確定したのは明治三〇年代と伝える。永暦二年正月日の後白河上皇院庁寄進状案(妙法院文書)には「号日吉新社」とみえ、河内国葛原岸和田くずはらきしわだ庄・相模国成田なるだ庄・伊予国前斎院勅旨田が寄進されている。「平家物語」巻六(祇園女御)は「法皇は院の御所法住寺殿へ御幸なる。かの御所は去る応保三年四月十五日につくり出されて、新比叡いまびえ新熊野いまぐまのなどもまぢかう勧請し奉り」と勧請を応保三年(一一六三)前後のように記す。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

改訂新版 世界大百科事典 「新日吉神宮」の意味・わかりやすい解説

新日吉神宮 (いまひえじんぐう)

京都市東山区妙法院前側町に鎮座。〈しんひよしじんぐう〉ともいう。1160年(永暦1),後白河上皇が院の御所法住寺殿の東に社殿を建て,比叡山日吉の神を勧請し,離宮の鎮守としたことに始まる。これを〈新日吉(いまひえ)〉と称し,天台座主(ざす)の所管するところとなった。62年(応保2)に初めて祭儀を執行し,承安年中(1171-75)より〈小五月会(こさつきえ)〉を行い,後白河上皇はしばしば御幸して参籠し,献馬献物をした。中宮もまた安産をこの社に祈願し,里神楽を奏した。1212年(建暦2)5月9日,後鳥羽上皇が参詣したが,それ以後小五月会はこの5月9日をもって恒例の祭日に定められた。小五月会には法皇,上皇の臨幸があり,大臣以下諸公卿などがこれに供奉し,神輿が中門に出御し,里神楽,獅子舞,田楽舞,競馬,流鏑馬(やぶさめ)などを行い,随身,北面武士,後には鎌倉武士もこれに参勤してはなはだ盛況をきわめた。歴代朝廷の尊崇も厚く,社領は加賀国額田荘,丹波国春日部荘,長門国向津荘など,多くを領した。しかし,応仁の乱にあって社殿の大半を破壊し,祭式も廃れた。1655年(明暦1),妙法院宮尭然法親王が再興。1897年,阿弥陀ヶ峰豊国廟の建設により社地を譲って現在の地に移った。いま境内に,本殿拝殿楼門,および末社として樹下(このもと)社,愛宕社,秋葉社,飛梅天満宮,山口稲荷社などがある。
山王信仰
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世界大百科事典(旧版)内の新日吉神宮の言及

【新日吉神宮】より

…京都市東山区妙法院前側町に鎮座。〈しんひよしじんぐう〉ともいう。1160年(永暦1),後白河上皇が院の御所法住寺殿の東に社殿を建て,比叡山日吉の神を勧請し,離宮の鎮守としたことに始まる。これを〈新日吉(いまひえ)〉と称し,天台座主(ざす)の所管するところとなった。62年(応保2)に初めて祭儀を執行し,承安年中(1171‐75)より〈小五月会(こさつきえ)〉を行い,後白河上皇はしばしば御幸して参籠し,献馬献物をした。…

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