日本歴史地名大系 「新日吉神宮」の解説
新日吉神宮
いまひえじんぐう
〔勧請・造営〕
永暦元年(一一六〇)一〇月一六日、後白河法皇の院御所
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
永暦元年(一一六〇)一〇月一六日、後白河法皇の院御所
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京都市東山区妙法院前側町に鎮座。〈しんひよしじんぐう〉ともいう。1160年(永暦1),後白河上皇が院の御所法住寺殿の東に社殿を建て,比叡山日吉の神を勧請し,離宮の鎮守としたことに始まる。これを〈新日吉(いまひえ)〉と称し,天台座主(ざす)の所管するところとなった。62年(応保2)に初めて祭儀を執行し,承安年中(1171-75)より〈小五月会(こさつきえ)〉を行い,後白河上皇はしばしば御幸して参籠し,献馬献物をした。中宮もまた安産をこの社に祈願し,里神楽を奏した。1212年(建暦2)5月9日,後鳥羽上皇が参詣したが,それ以後小五月会はこの5月9日をもって恒例の祭日に定められた。小五月会には法皇,上皇の臨幸があり,大臣以下諸公卿などがこれに供奉し,神輿が中門に出御し,里神楽,獅子舞,田楽舞,競馬,流鏑馬(やぶさめ)などを行い,随身,北面武士,後には鎌倉武士もこれに参勤してはなはだ盛況をきわめた。歴代朝廷の尊崇も厚く,社領は加賀国額田荘,丹波国春日部荘,長門国向津荘など,多くを領した。しかし,応仁の乱にあって社殿の大半を破壊し,祭式も廃れた。1655年(明暦1),妙法院宮尭然法親王が再興。1897年,阿弥陀ヶ峰豊国廟の建設により社地を譲って現在の地に移った。いま境内に,本殿,拝殿,楼門,および末社として樹下(このもと)社,愛宕社,秋葉社,飛梅天満宮,山口稲荷社などがある。
→山王信仰
執筆者:鈴木 昭英
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
…京都市東山区妙法院前側町に鎮座。〈しんひよしじんぐう〉ともいう。1160年(永暦1),後白河上皇が院の御所法住寺殿の東に社殿を建て,比叡山日吉の神を勧請し,離宮の鎮守としたことに始まる。これを〈新日吉(いまひえ)〉と称し,天台座主(ざす)の所管するところとなった。62年(応保2)に初めて祭儀を執行し,承安年中(1171‐75)より〈小五月会(こさつきえ)〉を行い,後白河上皇はしばしば御幸して参籠し,献馬献物をした。…
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出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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