新鍛冶町
しんかじまち
城の南東に位置し、桶屋町から土手町に至る道筋の町並。西は鍛冶町、東は北川端町に接する。
寛文一三年(一六七三)の弘前中惣屋敷絵図(市立弘前図書館蔵)では、屋敷割が不完全ながらされ、町内付近は新派町と総称され、町屋一〇軒のほかは空家が大部分。延宝六年(一六七八)の弘前町方屋敷割(八木橋文庫蔵)には、現町域がほぼ町割され、町名は大工町とあって、大工二〇軒余・碇屋二軒・鍛冶一軒・桶屋二軒・左官一軒などがあった。
新鍛冶町
しんかじまち
[現在地名]新宮市新宮
宇井野地の南にある。江戸時代初期はまだ田地で人家はなかったが(新宮古図)、寛文八年(一六六八)城下の火災で類焼した元鍛冶町の鍛冶職人が当地に引越し、町ができるようになった。彼らは新宮鍛冶と称され、年行司・組頭・庄屋に統率された鍛冶仲間を組織、城主水野氏の役鍛冶として生産・販売を独占していた。
新宮鍛冶は三輪崎鍛冶の流れをひくといわれ、鍛冶仲間の先祖は吉久といい、氏神の神倉社へ百日参籠した際に天狗から「天狗」の二字を授かり、以後火打・矢根・刀・脇指に「天狗吉久」の銘を入れるようになったという。
新鍛冶町
しんかじまち
[現在地名]酒田市中町一丁目・二番町
東は十王堂町、西は上内匠町までの東西に連なる町と、南は桶屋町、北は愛宕小路までの南北に連なる鉤形の二町よりなる。東西に連なる町は寛永一五年(一六三八)より正保二年(一六四五)までの八ヵ年に鍛冶町の北側に町並ができ(「明暦絵図書入」大泉叢誌)、同町に属した。南北に連なる町は明暦二年(一六五六)の酒田町絵図(同書)に屋敷五軒「茶志ん町」とあり、茶筅の行商人が居住した。天和三年(一六八三)の酒田町割家数人数書上(鶏肋編)に笠屋町とみえ、町域は半町、家数一〇・人数五四。
新鍛冶町
しんかじまち
[現在地名]小松市新鍛冶町
小松町の町域から東に突出して町立てされ、南の細工町と北の新町の境をなす東西通りの続きである。北・東・南は小寺村に囲まれる。長さ一町二〇間一尺・幅一間三尺(皇国地誌)。もと小寺村のうちで、前田利常在城時に軽海村から移住した鍛冶職人が集住した。万治二年(一六五九)城中の鍛冶御用を勤めるため、町奉行原田又右衛門により長さ一二二間・奥行一五間を村から独立させ、すでに鍛冶町があったので新鍛冶町とした。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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