新開庄(読み)しんがいのしよう

日本歴史地名大系 「新開庄」の解説

新開庄
しんがいのしよう

安心院あじむ盆地の北端部、現安心院町しよう新原にいばる木裳きのもを中心とする地域に比定される(安心院町誌)宇佐宮領庄園。「宇佐大鏡」によると、宇佐宮の位田・供田・油料庄等より成立した本御庄十八箇所の一つで、四至は「東限上野并中田庄境、南限河并新相博田地境、西限河、北限山」、田数は七九町、用作一町八反、「反別穫稲卅束内、除種子営料六束」であった。前出四至のうち中田は現在の字仲田なかた、西を限る河とは津房つぶさ川のことと思われる。「宇佐大鏡」によると延久三年(一〇七一)一一月の国符が引く宇佐宮牒には当庄が宇佐宮領となった経緯が記されていた。同牒によれば当庄は宇佐宮の根本神領(立券の時期は不明)であったが、寛弘年中(一〇〇四―一二)に公験を収めていた宇佐宮宝蔵が焼失してしまった。しかしその後の国司代々の例に倣って免租とした。ところが後三条天皇の庄園整理令により公験がない土地は公田に準じて官物が徴収されたので、恒例の神事が怠りがちとなった。


新開庄
しんかいのしよう

中新開なかしんかい一帯にあった庄園。「明月記」嘉禎元年(一二三五)正月九日条に「暁更禅室被下向河内新開庄金吾供奉」とみえる。弘安四年(一二八一)三月二一日、鎌倉幕府は関東祈願所である高野山金剛三昧院に「河州新開庄」を寄進し、同院観音堂領としてこれを安堵した(「関東御教書」金剛三昧院文書)。同六年五月日の金剛峯寺衆徒愁状案(高野山文書)によると、悪党が金剛三昧院の寺庫を破って兵粮に充てようとしたので、同院は河内国新開庄・紀伊国由良ゆら庄の庄官らを招集して寺庫を守護させたという。鎌倉後期、西園寺家領であったようであるが(「公衡公記」正和四年三月二五日条、建武二年七月二一日「後醍醐天皇綸旨」古文書纂)、建武新政のもと楠木正成が当庄を領有しており、湊川合戦で正成が討死した直後、足利尊氏は「河内国新開庄正成跡」を御祈祷料所として東寺に寄進した(建武三年六月一五日「足利尊氏寄進状」東寺百合文書)


新開庄
しんかいのしよう

現在の東成区深江ふかえ今里いまざとの付近を中心としたとみられる四天王寺(現天王寺区)三昧院の庄園。興国元年(一三四〇)七月二八日、南朝の後村上天皇は四天王寺の二八世執行泰順に綸旨を下し、父孝順の譲りに任せて新開庄の領主職を相伝知行するよう命じている(秋野房文書)、また正平六年(一三五一)二月二八日、四天王寺検校忠雲が播磨上座なる者に与えた御教書(同文書)によれば、後村上天皇の興国年間の勅裁のとおり、性順の余流である播磨上座が通順とともに三昧院領新開庄の知行を認められている。当時、室町幕府内部では、足利尊氏・義詮父子と足利直義との間が分裂する危機にあり、南朝方との間に複雑な政治関係が展開されていた。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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