日ロ関係(読み)にちろかんけい

日本大百科全書(ニッポニカ) 「日ロ関係」の意味・わかりやすい解説

日ロ関係
にちろかんけい

日本とソビエト連邦、ロシア連邦との関係。

前史

日本人とロシア人の多少とも公的意味をもつ接触は、18世紀初頭に大坂の商人デンベエを通じて初めて実現した。乗っていた船が難破し、カムチャツカに漂着したデンベエは、モスクワに移送された後、ピョートル大帝に謁見したのである。その後ロシア帝国政府は何度も日本に正式に使者を送ったが、無事に来航した場合でも江戸幕府は鎖国を国是として交易を拒否した。しかし、幕府の鎖国政策は19世紀なかばに転換を余儀なくされた。日本とロシアの間にあった清国(しんこく)の勢威が衰えてロシアの太平洋に向かう動きが活発になり、さらにロシア以外の列強も東アジアに本格的に進出してきたからである。国交樹立を急ぐロシア政府は、1853年(嘉永6)にプチャーチンを長崎に送った。その1か月前には、ペリーを乗せたアメリカ艦隊が浦賀に到着していた。このとき始まった日露交渉は途中クリミア戦争や安政の大地震に遭遇したために遅延した。日露通好条約下田条約)が締結されたのは、日米和親条約締結から1年近く経った1855年2月(安政元年12月)のことであった。

 この条約は日露間の国境を択捉島(えとろふとう)と得撫島(うるっぷとう)の間に定めたが、これが日露間で国境を定めた最初の機会であった。条約で両国民の雑居地とされた樺太(からふと)(サハリン)では、締結後に小事件がたびたび起こり、そのたびに日露両国の間に緊張が生じた。そこで日本(明治政府)は1875年(明治8)にロシアとの間に樺太・千島交換条約を締結し、樺太をすべてロシアに譲り、かわりに得撫島から占守島(しむしゅとう)までの18島を得た。

 以後しばらく日露間では大きな紛争が生じなかったが、日清戦争で勝った日本が朝鮮半島と中国大陸にその影響力を及ぼそうとし、他方中央アジアを獲得したロシアが、さらに清朝支配地域にまで支配を拡大しようとした結果、1904年(明治37)に日露戦争が勃発(ぼっぱつ)した。この戦争でかろうじて勝利した日本は、翌1905年に締結されたポーツマス条約で樺太南部を割譲させ、満州南部を通る鉄道などを獲得した。この結果、ロシアの影響力は北満州に封じ込められた。ロシア側には不満が残ったが、ヨーロッパ方面で緊張が続いたため、日本との関係改善に向かった。両国は1916年(大正5)までに4次にわたる日露協約を締結した。

[横手慎二]

ロシア革命とその後

1917年にロシア革命が起こり、11月に共産主義の実現を目ざすソビエト・ロシアが誕生すると、両国関係は一変した。ロシアに誕生した新政権がドイツなど交戦国との単独講和に応じたため、イギリスやフランスなど協商諸国は1918年に干渉軍を送り、新政権に敵対する勢力を支援した。これに共産党政権は資本主義に対する全面的批判で応じた。日本政府は協商国との協調出兵を名目として掲げつつも、かねて目をつけていた東清鉄道と北樺太の石油利権を獲得するために大部隊を送った。日本のこうした動きは、内戦状態にあったロシア人のみならず、共同出兵国の一部からも批判を受けることになった。結局日本軍が完全にソ連領から撤兵したのは、1925年(大正14)1月に日ソ基本条約が締結された後のことであった。

 日ソ間の平穏状態は1931年(昭和6)の満州事変によって一変した。日本軍の中国東北部への進出と満州国の樹立は、資本主義国からの攻撃を恐れるソ連に重大な脅威と映ったのである。この状態でソ連指導部は、かねて進めていた五か年計画を強行した。さらに彼らは国境警備兵を増強し、日本(満州国)に対し東清鉄道の売却を提案し、1933年11月にはアメリカとの国交を樹立した。また、中国が主権を主張していた外モンゴル(当時のモンゴル人民共和国)との間で1934年11月に、相互援助を定めたソ蒙紳士協定を締結した。

 1930年代なかばまでに、ソ連指導部は極東方面での国防態勢を強化した。この状態で、ソ連およびモンゴル人民共和国と、日本および満州国の間で国境紛争が頻発するようになった。そのうちとくに大きな紛争が、1938年に勃発した張鼓峰(ちょうこほう)事件と翌1939年に起きたノモンハン事件である。とくに後者では日本は手痛い敗北を喫した。このときの衝撃から日本は1941年4月にソ連と中立条約を締結したが、その2か月後の6月に日本の同盟国であったドイツが対ソ戦を開始した。外交方針の転換を余儀なくされた日本の指導部は、満州で関特演を行ってソ連の後方を脅かしたが、実際の攻撃までには至らなかった。

 第二次世界大戦中、日ソ両国はかろうじて平和状態を保った。しかし、アメリカとイギリスはソ連の対日参戦を求め続け、1945年2月のヤルタ会談でソ連参戦の合意を生み出した。このときスターリンは参戦の条件として樺太南部の返還とクリル諸島千島列島)の引き渡しを求め、英米両国の同意を得た。1945年8月8日にソ連は日本に宣戦を布告し、中国東北部、モンゴル、朝鮮半島北部、樺太、占守島から歯舞群島(はぼまいぐんとう)までを占領していった。日本は8月14日にポツダム宣言の受諾を伝え、9月2日に降伏状に署名した。

[横手慎二]

連合国の対日占領と講和問題

戦後の日ソ関係は二つの事情によって影響を受けた。一つは、連合国を構成したアメリカとソ連の対立がしだいに深刻化し、事実上アメリカの単独占領下に置かれた日本も、米ソ間の熾烈(しれつ)な対抗関係に巻き込まれたことである。第二の事情は、ソ連が戦争末期に日ソ中立条約を破って参戦し、さらにその支配地域で多数の日本人を抑留したことにより、日本国民のなかに強い対ソ不信感が醸成されたことである。ソ連批判の動きは、終戦時に中国や朝鮮半島で抑留され、ソ連内地に連行された日本軍民の帰還促進運動として組織化された。

 1947年(昭和22)ごろに米ソ冷戦が世界的に広がると、日本国内でもアメリカを中心とする自由主義陣営を支持する勢力と、ソ連を中心とする社会主義陣営を支持する勢力が、政治的イデオロギー的に対立するようになった。経済的苦境と占領下の不満が後者の勢力を後押しした。

 1950年に朝鮮戦争が勃発すると、アメリカはますます日本を自国の陣営に結び付けておく必要を感じるようになり、翌1951年にサンフランシスコ対日講和条約を締結した。会議にはソ連も参加したが、最終的には条約に調印しなかった。この条約は日本が樺太と千島列島を放棄することを規定していたが、その帰属先を定めていなかった。このときには日米安全保障条約も締結され、日本は独立回復とともにアメリカの陣営に入った。

 1954年に対米自立を目ざす鳩山一郎(はとやまいちろう)の政権が成立すると、ソ連は講和条約の締結を働きかけた。翌年夏に始まった交渉で、ソ連側は講和条約締結を条件に歯舞と色丹(しこたん)を返還する譲歩案を示した。これに重光葵(しげみつまもる)外相が応じる姿勢をみせると、日本の自民党のなかに批判がおこり、またアメリカも2島返還での条約締結の動きに難色を示した。このために鳩山は講和条約を断念し、1956年10月に日ソ共同宣言に署名して国交の樹立のみを実現した。この宣言によって、長期に抑留されていた日本人はようやく帰国することができた。

[横手慎二]

ソ連時代の外交・貿易関係

米ソ冷戦状況と日本国内の反ソ意識は、両国関係をきわめて低調なものとした。両国は1956年(昭和31)に漁業条約を、1957年に通商条約を締結して、貿易関係の増大を図った。貿易額はしだいに増大したが、それでも大きく伸びることはなく、日本の総貿易額に占める割合は限定されたものだった。ソ連側は1960年以来、領土問題は解決済みであると主張するようになった。

 1970年代初頭に起こった米中接近がこの状況を揺るがした。日ソ両国で接近の動きが起こり、1973年10月に田中角栄首相がソ連を訪問した。日本側の資料によれば、このとき、ブレジネフ書記長は両国間の未解決の諸問題のなかに領土問題が含まれると口頭で確認した。また、日本の公的融資であるバンク・ローンを対ソ貿易に供与することが決まった。

 日ソ間の関係改善ムードは、1979年12月に起こったソ連軍のアフガニスタン侵攻で霧散した。アメリカを中心とする西側陣営で対ソ対決姿勢が強まり、日本も1980年に開催されたモスクワ・オリンピックをボイコットした。また翌1981年1月には、2月7日を「北方領土の日」と定める閣議了解を採択した。冷戦の対決ムードはさらに高まり、1983年9月には大韓航空機がサハリン沖でソ連機に撃墜されるという事件が起こった。

[横手慎二]

ゴルバチョフのペレストロイカ

1985年3月にゴルバチョフがソ連共産党書記長となり、ソ連経済の停滞打破のために、ペレストロイカ(建て直し)政策を始めた。ゴルバチョフは対外政策の対決姿勢を改め、極度の緊張状態にあった対米関係を改善していった。このために、冷戦はしだいに終焉(しゅうえん)に向かった。このような国際的な変化は日ソ関係にも影響を及ぼした。1985年(昭和60)9月には7年ぶりに日ソ外相会談が行われた。さらに両国外相は、翌1986年に相互に相手国を訪問した。しかし、こうした状況でも日本側のソ連不信はきわめて強く、ソ連側が願っていた経済協力を、日本政府は歯舞、色丹、国後(くなしり)、択捉の4島の返還の動きと直接的に結び付けた。領土問題で交渉が進まなければ経済協力もない、とする方針は政経不可分論と名づけられ、その後しばらく、日本政府の対ソ政策の基本的方針として機能した。

 1989年後半に、東欧諸国において相次いで社会主義政権が崩壊した。この動きは、ソ連経済の低迷とともにゴルバチョフを動揺させた。この状況でドイツ連邦共和国(西ドイツ)はソ連に経済支援を約し、1990年7月までにゴルバチョフ指導部に東西ドイツの統一を認めさせた。対照的に日ソ関係は進展せず、ゴルバチョフが日本を訪問したのは1991年(平成3)4月のことであった。このときにはすでに彼の国内的権威は低下しており、講和交渉は進まなかった。1991年8月にクーデターが勃発し、それが失敗に終わると、ソ連は急速に崩壊に向かった。

[横手慎二]

ソ連崩壊後の日ロ関係

1991年12月にソ連が崩壊する以前から、ロシアのエリツィン大統領は対日講和条約が締結されていない事実を重視し、領土問題の解決を模索した。この方針の背景には、悪化する経済状態を改善するために、経済大国化していた日本から経済援助を引き出したいとする期待があった。しかし、ソ連からロシアにかわっても日本側の不信は消えず、日本政府は対ロ援助に慎重であった。日本政府は、1992年(平成4)7月にロシア支援をめぐるG7サミット(主要国首脳会議)がミュンヘンで開かれたとき、領土要求を政治宣言に盛り込み、ロシア側に圧力をかけた。こうした状況で、エリツィンは9月に予定された日本訪問を土壇場で取りやめた。

 1993年10月にようやくエリツィンの訪日が実現し、そこで両国は4島の帰属問題を解決して講和条約の早期締結を目ざすと記した東京宣言に合意した。その後、小休止を経て、1997年に両国はふたたび交渉にとりかかった。同年7月に橋本龍太郎(はしもとりゅうたろう)首相が経済同友会での相互信頼を重視する演説を行うと、エリツィンが速やかに応じ、11月にはクラスノヤルスクで首脳会談が開催された。ここでエリツィンは2000年(平成12)までに平和条約を締結したいと発言した。これに勢いづいた日本側は、翌1998年初頭には金融支援を表明し、4月に開催された川奈会談において択捉島の北に国境線を画定し、暫定的にロシア側の施政権を認めるという新提案をした。しかしロシア側がこれに拒否回答で応じ、交渉は頓挫(とんざ)した。

 2000年にプーチンが大統領に就任したころから、石油価格が高騰し始め、ロシア経済は急速に回復に向かった。それとともに、ロシア側の領土問題に対する態度は厳しくなった。他方の日本側では、領土交渉を主導したグループが二島先行論の是非をめぐり分裂し、交渉方針が不明瞭になった。こうして、日ロ間ではエネルギー価格の高騰を受けて経済関係が順調に拡大したにもかかわらず、政治関係は停滞した。2010年にロシア政府が日本との領土交渉に応じないとする姿勢を示し始めたことから、日ロ政治関係は冷却状態に入った。

[横手慎二]

『真鍋重忠著『日露関係史――1697~1875』(1978・吉川弘文館)』『原暉之著『シベリア出兵――革命と干渉1917~1922』(1989・筑摩書房)』『吉村道男著『日本とロシア』増補版(1991・日本経済評論社)』『秋月俊幸著『日露関係とサハリン島――幕末明治初年の領土問題』(1994・筑摩書房)』『原暉之・外川継男編『講座スラブの世界8 スラブと日本』(1995・弘文堂)』『和田春樹著『北方領土問題』(1999・朝日新聞社)』『長谷川毅著『北方領土問題と日露関係』(2000・筑摩書房)』『木村汎著『遠い隣国――ロシアと日本』(2002・世界思想社)』『佐藤和雄・駒木明義著『検証 日露首脳交渉――冷戦後の模索』(2003・岩波書店)』『末沢昌二・茂田宏・川端一郎編著『日露(ソ連)基本文書・資料集』改訂版(2003・RPプリンティング)』『横手慎二著『日露戦争史――20世紀最初の大国間戦争』(2005・中央公論新社)』『東郷和彦著『北方領土交渉秘録――失われた五度の機会』(2007・新潮社)』『和田春樹著『日露戦争――起源と開戦』上下(2009、2010・岩波書店)』

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