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北方領土 ホッポウリョウド

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デジタル大辞泉の解説

ほっぽう‐りょうど〔ホクパウリヤウド〕【北方領土】

第二次大戦ソ連の統治下になり、ロシア連邦と日本との間でその帰属が問題となっている地域。一般に歯舞(はぼまい)群島色丹(しこたん)島および南千島の国後(くなしり)島択捉(えとろふ)島をさす。

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朝日新聞掲載「キーワード」の解説

北方領土

北方四島を指す「北方領土」という言葉は、1960年代ごろから日本政府が使い始めた。北海道納沙布岬から最も近いのは歯舞群島の貝殻島で、約4キロしかない。最大の択捉島の面積は、沖縄県の1.5倍ほど。四島の総面積は千葉県とほぼ同じだ。1855年の日露通好条約の調印日である2月7日が「北方領土の日」になっている。1945年にソ連軍に占領された当時、四島には計約3千世帯、約1万7千人が住んでいた。島を追われた住民の多くは北海道や東北地方で生活し、主に漁業関係の仕事に就いた。政府は低金利で資金を提供するなど生活を支援してきた。択捉、国後は火山島で、温泉もある。周辺海域は親潮の千島海流と黒潮の日本海流がぶつかり、タラバガニやサケ、昆布などが豊富。戦後は多くの日本漁船が拿捕(だほ)され、旧ソ連時代だけでも千隻以上の船と8千人を超える漁民が拿捕された。ロシア側は、サハリン州政府が管轄する。人口は2012年1月現在、終戦時の日本人とほぼ同数。日本政府はロシアの実効支配を認めることになるとして、ロシアのビザで訪れないよう呼びかけている。90年代からは、交流の機会を増やそうと「ビザなし交流」が始まり、両国間の同意で訪問できるようになった。これまで延べ1万人以上が訪れている。ほかに、元島民らによる墓参りも続いている。

(2013-04-23 朝日新聞 朝刊 東特集A)

出典|朝日新聞掲載「キーワード」
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大辞林 第三版の解説

ほっぽうりょうど【北方領土】

第二次大戦後,日本とソ連(解体後はロシア連邦)との間でその帰属をめぐって争われている千島南部の地域のこと。一般に南千島(国後くなしり・択捉えとろふ)と歯舞はぼまい・色丹しこたんをさす。

出典|三省堂
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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

北方領土
ほっぽうりょうど

第二次世界大戦後、当時のソ連に編入された日本領土、すなわち南樺太(からふと)、択捉(えとろふ)・国後(くなしり)を含む千島列島ならびに歯舞(はぼまい)群島、色丹(しこたん)の諸島のことである。一般に北方領土問題といえば、とくに択捉、国後、歯舞、色丹の四島を意味している。

問題の発端

第二次世界大戦中、1945年2月にアメリカ、イギリス、ソ連の首脳が合意したヤルタ協定は、「樺太の南部及びこれに隣接するすべての諸島がソ連に返還されること」ならびに「千島列島はソ連に引き渡されること」を規定し、さらに同年7月にアメリカ、イギリス、中国の首脳が合意し、8月に日本が受諾したポツダム宣言は「日本国ノ主権ハ、本州、北海道、九州及ビ四国竝ビニ吾等ノ決定スル諸小島ニ局限セラルベシ」と規定していた。
 これらの文書を受けて、1951年(昭和26)に調印された対日講和条約は、北方領土については「日本国は、千島列島並びに日本国が1905年9月5日のポーツマス条約の結果として主権を獲得した樺太の一部及びこれに近接する諸島に対するすべての権利、権原及び請求権を放棄する」と規定した(第2条c)。サンフランシスコ講和会議で吉田茂全権は、歯舞、色丹が北海道の一部で、千島に属しないと述べたが、択捉、国後については昔から日本領土だったと言及するにとどまり、西村熊雄(にしむらくまお)条約局長が1951年10月の衆議院特別委員会で千島列島に含まれると述べている。しかし、この条約には千島が最終的にどこに帰属するかは記載されず、ソ連はこの対日条約に参加しなかった。
 1956年日ソ共同宣言は、「ソ連は、日本国の要望にこたえかつ日本国の利益を考慮して、歯舞群島及び色丹島を日本国に引き渡すことに同意する。ただし、これらの諸島は、日本国とソ連との間の平和条約が締結された後に現実に引き渡されるものとする」と規定した。この時期には、日本政府は対日講和条約で放棄した千島に四島は含まれないという立場をとっていたため、歯舞、色丹の返還だけで日ソ平和条約を締結することはできなかった。
 その後、ソ連は日米新安保条約の締結を非難し、1960年1月に、日本領土からの全外国軍隊の撤退がなければ歯舞、色丹の返還もできないという趣旨のグロムイコ外相の覚書を発表した。その後、1972年に大平正芳(おおひらまさよし)外相、1973年に田中角栄(たなかかくえい)首相、1975年に宮沢喜一(みやざわきいち)外相が訪ソし、また1976年にはグロムイコ外相が訪日して、平和条約交渉が行われたが、領土問題は解決ずみとするソ連と、北方領土が固有領土だとする日本側の主張が平行線をたどり、1978年夏ごろからソ連は、国後、択捉に軍事基地を配備し、施設を構築して既成事実を固めた。

返還要求運動と二つの議論

その間、国内では北方領土返還要求運動連絡協議会を中心とする返還運動が盛んとなり、1979年(昭和54)2月に国会で北方領土問題の解決促進に関する決議が採択され、また1981年1月の閣議では、日露和親条約締結の日にちなんで2月7日が「北方領土の日」と定められた。1982年8月には「北方領土問題等解決促進特別措置法」が制定され、2009年(平成21)の改正で、第一条に「北方領土がわが国固有の領土である」と明記された。
 北方領土の返還要求については、日ソ共同宣言に沿い歯舞・色丹二島の返還をまず求め、次いで国後・択捉の返還を求めるという二段階論と、四島同時の返還を求めるべきであるとの四島一括返還論があり、国内世論および政府内の意見が分かれている。

その後の返還交渉

1988年(昭和63)には両国間で次官級平和条約作業部会が設置された。1991年(平成3)にゴルバチョフ大統領が来日した際の共同声明では、北方四島を「解決されるべき領土問題」として明示した。ソ連崩壊後の1992年にはこの地域へのビザなし渡航が開始され、同年9月に両国外務省の協力で「日露間領土問題の歴史に関する共同作成資料集」が作成された。翌1993年にはロシアのエリツィン大統領が来日し、細川護熙(ほそかわもりひろ)首相との間で、北方四島を明記したうえで、領土問題を歴史的・法的事実、両国間の合意文書および法と正義の原則に基づいて解決して平和条約を早期に締結し、両国関係の完全な正常化を図るとする「東京宣言」が調印された。また、1997年にはロシアのクラスノヤルスクで領土問題を含め、橋本龍太郎(はしもとりゅうたろう)首相とエリツィン大統領との会談も開かれたが、交渉は進展しなかった。2001年3月には森喜朗(もりよしろう)首相とプーチン大統領が「イルクーツク声明」に合意し、今後の平和条約交渉の出発点を設定した法的文書と東京宣言に基づいて四島の帰属の問題を解決して平和条約を締結することに合意した。しかし、2010年11月メドベージェフ大統領は、ロシアの最高指導者として初めて北方領土の国後島を訪問し、北方領土の実効支配を既成事実化する動きを示した。

今後の対応

北方領土問題の解決は、ロシア側の強硬な態度に鑑(かんが)み、困難が予想されるが、「東京宣言」に記載されているように、過去に締結された国際合意を含め法と正義に基づく解決が期待される。日本は、領土返還にあたって、現在居住中のロシア住民には配慮し、帰属の確認を条件に実際の返還時期、態様については柔軟に対応するとしている。[石本泰雄・宮崎繁樹]
『国際法学会「北方領土の地位――千島・樺太をめぐる諸問題」(『国際法外交雑誌』60巻4・5・6合併号所収・1962・有斐閣) ▽高野雄一著『日本の領土』(1962・東京大学出版会) ▽洞富雄著『北方領土の歴史と将来』(1973・新樹社)』

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