鎌倉後期、南北朝時代の日蓮(にちれん)宗の僧。会津(福島県)黒川の石塚氏の出。1332年(元弘2)19歳で叡山(えいざん)に登り慈遍(じへん)に師事、玄妙と名のり天台僧となる。66歳のとき日蓮の『開目抄(かいもくしょう)』『如説修行抄(にょせつしゅぎょうしょう)』を読み感動、天台僧6人を同行して日蓮宗に改宗した。曽祖父(そうそふ)日高(にちこう)(1257―1314。中山法華経(ほけきょう)寺第3代)の陰の志を嗣(つ)ぎ京都に布教、京都の有力な町衆の帰依(きえ)を得て妙満寺を建てた。これが後の妙満寺派または顕本法華(けんぽんほっけ)宗の基である。日蓮への帰伏(きぶく)は下総(しもうさ)(千葉県)真間(まま)の弘法(ぐほう)寺(帰入状が同寺にある)であったので、以後千葉氏をはじめ下総で教線は目覚ましく伸びた。念願の足利義満(あしかがよしみつ)への庭中訴願(ていちゅうそがん)を果たし、内容は通じたが、以後の訴願は禁ぜられ断念した。明徳(めいとく)3年2月、79歳で会津で没。
[相葉 伸 2017年9月19日]
南北朝時代の日蓮宗の僧。顕本法華宗の開祖。奥州会津石堂氏の出身。はじめ玄妙と号し,天台僧であったが,日蓮の遺文を閲覧して改宗。名を日什と改めて,下総真間弘法(ぐほう)寺に帰入し,さらに同中山法華経寺にも関係したが,のち同寺を離れて一派を立てた。京都に上り,関白二条師嗣,将軍足利義満ら公家や武家に日蓮の教えを提示してこれに帰すことを諫奏した。遠江(とおとうみ)府中に玄妙寺,京都に妙満寺,会津に妙法寺を建立して,一派の拠点とした。日什はそれまでの日蓮以降の門下の継承を否定して,みずから日蓮に直結する立場をうち出し,諸宗は人々が地獄に堕ちる根源で,法華宗のみが成仏できるとした。この系統を日什門流,妙満寺派といい,1898年顕本法華宗と公称している。
執筆者:高木 豊
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