東光寺(読み)とうこうじ

日本歴史地名大系 「東光寺」の解説

東光寺
とうこうじ

[現在地名]甲府市東光寺三丁目

愛宕あたご山の東山裾にある。法蓋山と号し、臨済宗妙心寺派。本尊は薬師如来。由緒書(寺記)によると、創建は不詳であるが、保安二年(一一二一)新羅三郎義光が国家鎮護・仏法繁盛の祈願所として諸堂を建立し興国こうこく院と号した。だがのち荒廃し、弘長二年(一二六二)蘭渓道隆(大覚禅師)が禅刹として再興、寺号を東光寺と改めたという。寺蔵の薬師十二神将のうち毘羯羅神像には、弘長二年一月五日の墨書銘がある。なお「甲斐国志」は再興の年を文永年中(一二六四―七五)としている。鎌倉時代末には幕府の官寺となり、諸山位の寺格を北条高時から与えられ(年未詳一〇月二〇日「崇鑑北条高時公帖」鎌倉市立図書館所蔵文書)、五山・十刹の次に位置づけられた。延文三年(一三五八)六月二三日には東光寺住持職に了堂を任命する足利義詮の公帖(神田孝平氏所蔵文書)が出されている。応永二七年(一四二〇)には大林寺(現不明)の鐘が当寺に移され、この鐘(現山梨市永昌院蔵)の同年一二月一三日付の追銘には「山梨郡板垣郷宝蓋山東光興福禅寺鐘」「本朝初祖大覚禅師五世法孫当代再住持 中興比丘玉岡徳蘊 勧縁都寺徳丘記之」などとある。

東光寺
とうこうじ

[現在地名]島田市東光寺

東光寺集落の最北に所在する天台宗寺院。池沢山と号し、本尊は千手観音。正平六年(一三五一)一二月一三日の足利尊氏禁制(東光寺文書、以下同文書は省略)は観応の擾乱で鎌倉に向かう途中、尊氏が「東光寺」に宛てて、寺内への軍勢等の乱入狼藉を禁じたものである。観応三年(一三五二)七月二一日、今川範氏大津おおつ城攻めに先立って、当寺に乱入狼藉することを禁じている(今川範氏禁制)。以降今川氏の歴代の帰依により寺運を興隆させた。応永二〇年(一四一三)一一月一二日、今川範政は東光寺領に対し浅間社造営役と加籠役を除く諸公事等を免除している(駿河守護今川範政書下)

東光寺
とうこうじ

[現在地名]徳島市寺町

てら町のほぼ中央東寄りにある。天寿山と号し、浄土真宗本願寺派。本尊は阿弥陀如来。寺伝では、正応三年(一二九〇)に宮内少輔藤原成直の子成重が出家して寛海と称し美馬みま岩倉いわくら(現脇町)に開いた寺で、文明元年(一四六九)板野いたの川端かわばた(現板野町)に移り、そのとき浄土真宗に転じたとする。「阿波志」では古くは川端にあり寛海が開いたとする。だが阿州三好記大状前書(徴古雑抄)には勝瑞しようずい(現藍住町)にある門徒宗の頭寺として東光寺がみえ、寺領は一三貫文、下寺二八ヵ寺とある。

東光寺
とうこうじ

[現在地名]野洲町妙光寺・三上

妙光寺みようこうじ山一帯にあった寺院の総称。三上大みかみだい寺ともよばれ、三上社(御上神社)とかかわりが深い。「興福寺官務牒疏」には東光教とうこうきよう寺とあり、朱鳥元年(六八六)持統天皇の勅願で、天武天皇の病気平癒を祈願して近江国内に建立された三精舎の一つとする。三上郷のうちにあって本尊は薬師如来、開基は奈良元興がんごう(現奈良市)の僧道智、僧坊は一九宇、交衆八口の三上神法楽の精舎と記される。御上みかみ神社蔵の三上大寺四至図や三上古跡図、日陽山東光寺縁起などによれば、院坊は東光寺山・妙光寺山を中心に三上山・天山山麓に点在し、現在でも遺構・遺物が残る。

東光寺
とうこうじ

[現在地名]赤泊村徳和

徳和とくわ集落の北西、丘陵台地上の平坦部にある。西に赤泊から真野まの(現真野町)へ出る旧道が通じ、東には現在の主要道路である県道両津―真野―赤泊線が通る。もと佐和田さわた本田ほんでん寺末。曹洞宗、白毫山と号する。本尊聖観音立像(秘仏)。末寺に徳和の観音寺、腰細の長命こしぼそのちようめい(現在廃寺、当寺へ合併)があった。寺伝によれば下野国那須野なすのの殺生石を割ったと伝える玄翁が、廻国修行中当地へ至り、地頭本間山城守秀純の帰依を受けて開基としたという。中興は大永二年(一五二二)没と伝え、本田寺開山とされる麗天宗果。

東光寺
とうこうじ

[現在地名]伊自良村小倉

伊自良村の南端近く、西の岐阜市佐野さのとの境をなす小山の山麓にある。富士山と号し、臨済宗妙心寺派、本尊は聖観音。美濃国三十三観音の第九番札所。富士山から飛来したという薬師如来を守護し、現在の寺の麓で修行していた華翁頼舜が、明応年間(一四九二―一五〇一)草庵の池から竜が昇天するのをみて、師の希雲楚見に山を寄進した。文亀年間(一五〇一―〇四)希雲は一宇を建て、薬師如来の伝えをもって山号とし、東方薬師瑠璃光如来の徳をたたえて東光寺と名付け、自分の師である東陽英朝を開山始祖と仰ぎ、自らは第二世となり施主の頼舜を開基としたと伝える。

東光寺
とうこうじ

京都市左京区岡崎おかざき黒谷くろだにの南東にあった寺。元慶年間(八七七―八八五)陽成天皇の母藤原高子の御願寺として創建され、延喜五年(九〇五)三月九日定額寺となり官寺に準ずる寺院となった(扶桑略記)。「延喜式」巻二六(主税上)には東光寺寺料が記される。「日本紀略」延喜一〇年五月一〇日条に同年三月二三日に没した高子の「七々日法会」が修せられたことがみえる。

東光寺
とうこうじ

[現在地名]本宮町湯峯

湯峯ゆのみね川のほとりにある湯峯温泉のほぼ中央に位置。薬王山と号し、天台宗。本尊は薬師如来。寺伝によれば天仁元年(一一〇八)鳥羽天皇の勅願により寺領を与えられて、二重塔(多宝塔)を建立したのに始まるという。一説には後鳥羽上皇の時といわれ、「西国三十三所名所図会」は役行者が開いたとする。本尊薬師如来は湯の花が石化してできたものと伝え、一に「湯ノ胸薬師」とよばれ、湯峯温泉もこの薬師の呼名にちなむという。大治三年(一一二八)に調整され、天文四年(一五三五)に書写された本宮大社文書(改訂熊野三山経済史)に「湯峰薬師同塔守出家一人衆徒ヨリ仕置」とみえ、平安時代後期に薬師如来を本尊とする堂塔の存在が推測される。

東光寺
とうこうじ

[現在地名]仙台市岩切 入山

七北田ななきた(冠川)左岸、高森たかもり山の南に続く丘陵の南端にある曹洞宗寺院。医王山と号し、木仏坐像の釈迦如来を本尊とする。もと天台宗で慈覚大師の開基と伝え、多賀国府の霊廟として千体の金仏と五百羅漢をもって建立され、当時は二千石余の寺領を有したが、のち洪水でいっさいを流失したという(岩切村安永風土記)。留守家分流系図(「仙台市史」所収)によれば、留守氏四代家政の妹比丘尼性喜が東光寺と号しており、留守氏との深い関係が知られる。

東光寺
とうこうじ

[現在地名]杵築市横城

国道二一三号の安岐あき町境界の志口しぐちから、北方の山に向かって進むと、中腹の急傾斜地に横城よこぎがあり、その東方にある。横城山と号し、天台宗。本尊薬師如来。奈良時代に人聞(仁聞)により開基されたと伝える六郷山の中山一〇ヵ寺の一つといわれる。「六郷山定額院主録」に「横城山東光寺院主真乗坊の従十二房」とあり、隆盛の時代を想起できる。付近の屋敷跡と思われる所に房(寺)が一二林立していたと考えられる。貞応二年(一二二三)一一月二日の大友能直譲状(志賀文書)に「安岐郷横城山院主職」とあり、早くに守護大友氏領となっている。

東光寺
とうこうじ

[現在地名]七ヶ宿町 湯原

七ヶ宿街道に沿う湯原の西端にあり、昭和三〇年(一九五五)の火災により本堂と庫裏を焼失。現在江戸期のものとしては萱葺の山門が残る。曹洞宗、鹿園山と号し、本尊は釈迦牟尼仏。開基年代は不明だが、古くは湯原ゆのはらより西の玉木原たまのきはら東光寺沢にあり、のち金山開発に伴い現在地に移ったという(観蹟聞老志)。「湯原村安永風土記」に文明四年(一四七二)九皐宥鶴の中興とあるが、「封内風土記」では開山とする。伊達家九代の儀山公政宗および妻の位牌を伝え、「安永風土記」にも墓所位牌之事としてみえるが、前述の火災で焼失。

東光寺
とうこうじ

[現在地名]萩市大字椿東 椎原

東光寺山のほぼ北麓に位置する。護国山と号し黄檗宗。本尊は釈迦如来。

「注進案」によれば、厚狭あさ郡の松谷村にあった寺号と仏像を元禄四年(一六九一)現在地に移し、翌五年(寺伝は四年)三代藩主毛利吉就が当寺を建立したとある。その後代代の藩主の帰依を受けて伽藍を備え、寺領は八五〇石あったという。同書によれば除高は九石余で、仏殿・位牌殿・禅堂・斎堂・天王堂・鐘楼・鎮守堂・経蔵・書院・大方丈・小方丈・開山堂・禅堂寮舎と塔頭に鉢多はつた院・円福えんぷく院・泰法たいほう院があった。玖珂くが郡と萩椿東分つばきひがしぶんに各二、大津おおつ深川ふかわ(現長門市)、厚狭郡と豊後に各一ヵ寺の末寺があった。

境内の毛利家墓所は、萩藩主毛利家墓所の一で三代吉就・五代吉元・七代重就・九代斉房・一一代斉元と各夫人の計一〇基ほか一族の墓石が並ぶ。

東光寺
とうこうじ

[現在地名]吉川町福吉

三田市馬渡うまわたりとの境界付近にある。好射山あるいは小屋山と号し、高野山真言宗。本尊は子安地蔵小屋寺こやでらと通称される。摂津昆陽こや(現伊丹市)の昆陽寺の開基行基の草創といわれ、播磨の東に位置するため東光寺と名付けられたと伝える。永禄二年(一五五九)八月中旬の来迎壁板裏面墨書銘に「小那山東光寺」「本堂畳十五帖有」とみえる。

東光寺
とうこうじ

[現在地名]栃尾市東中野俣 繁窪

繁窪しげくぼにある。曹洞宗、稲荷山と号し、本尊金剛界大日如来。開山は向谷地の常安むかいやちのじようあん寺四世簾叟秀頓。創設年代は明治の寺院明細帳(新潟県庁蔵)では慶長一一年(一六〇六)としているが、同三年の中野又村検地帳(諏佐通晴氏蔵)には「大日てん」四筆の名請人としてみえる。「栃尾郷誌」では天正一六年(一五八八)とする。本尊の大日如来は平安末期の作と推定され、県指定文化財。観音かんのん本尊ほんぞん(現見附市)にあった十二坊が、野火によって一山炎上した際に、大日堂長王ちようおう寺住職弘照が中野俣高野たかの山に移したのが始まりと伝え、当初は真言宗であったという。

東光寺
とうこうじ

[現在地名]佐々町羽須和免

羽須和免はすわめんの北部にある。医王山と号し、金松嶺東光護国禅寺とも称する。曹洞宗。本尊は瑠璃光薬師如来。永享八年(一四三六)の創建と伝え、土佐大用だいよう(現高知県中村市)の英巌漢雄(松蔭)が当寺の裏山の虎頭岩の一帯を金松嶺と名付けて日夜座禅を行っていたところ、山頂に日輪が降臨したのをみて霊地とし、庵を建て本尊として護持していた薬師像を安置、東光寺と号したという。

東光寺
とうこうじ

[現在地名]岩井市長須 香取前

八幡神社南東二〇〇メートルに所在。摩尼珠山聖宝しようほう院と称し真言宗豊山派。本尊不動明王。創建は正長元年(一四二八)、開山は広田、中興開山は宥尊。境内に承元四年(一二一〇)・応安五年(一三七二)の青板碑などがある。宝永三年(一七〇六)の村明細帳(長野監治文書)に「一御朱印高拾五石、本寺伏木村大政院、摩珠ママ山東光寺真言宗、山林境内四町九反弐畝弐拾歩、外年貢地拾四石八斗弐升」とあり、さらに長須ながす村内の末寺、朱印高一五石の文珠もんじゆ院・四石の威徳いとく寺・東珠とうじゆ院・勝蔵しようぞう院・蓮珠れんじゆ院・弥勒みろく院・栄光えいこう寺などがみえるが、現在は皆廃寺。

東光寺
とうこうじ

[現在地名]銚子市小船木町

小船木こぶなきの南西にある。舟木山と号し、真言宗智山派。本尊阿弥陀如来。貞永元年(一二三二)親鸞が関東教化の折船木ふなき郷の善阿弥という信者の懇請により阿弥陀如来を安置し、菩提樹を植え、一宇を建立したのが始まりという。正平六年(一三五一)紀州根来ねごろ(現和歌山県岩出町)の吽恵を領主の幾田氏が尊信、当寺に迎え、以後真言宗に改宗。のち千葉祐胤が寺領を寄進したと伝える(海上郡誌)。明応四年(一四九五)東光寺の乗恵が弘恵に印可を授けた(円福寺文書)。天正一九年(一五九一)一一月の徳川家康寄進状(寺蔵文書)によると、海上うなかみ郡舟木郷三〇石が寺領とされた。寛永一〇年(一六三三)の関東真言宗新義本末寺帳に舟木東光寺とある。

東光寺
とうこうじ

[現在地名]西春町弥勒寺 郷南

金剛山と号し、曹洞宗。本尊弥勒菩薩。当寺の西北に禅応寺という古刹があったが、本山延暦寺と争い、廃寺の悲運に遭い、のち火災で伽藍を失った。この時青野あおの(現在西之保に東青野・西青野の地名がある)の住人が本尊弥勒菩薩を救い出して小屋に安置していたのを、文明元年(一四六九)僧華公が霊夢によってこれを請じ、小堂を建てて弥勒寺と称したという(西春日井郡誌)。しかし弥勒寺の名はすでに文和二年(一三五三)にみえている。応永四年(一三九七)の尾張国目代光守注進状(醍醐寺文書)には、「二貫文 国分寺三分一 善応寺知行分 (若君)御領 三貫九百五十五文 弥勒寺 同御領」とあり、善応寺と弥勒寺が併記されている。

東光寺
とうこうじ

[現在地名]佐野市寺中町

秋山あきやま(旧佐野川)と東武佐野線に挟まれた地にある。亀峯山と号し、臨済宗建長寺派。本尊は薬師如来で慈覚大師の作と伝える。瑠璃殿とも称する(下野国誌)。延暦年間(七八二―八〇六)伝教大師の開山、円澄の開基といわれ、鎌倉期に鎌倉建長寺の七世大円が中国の僧月洲法乗を開祖として勧請した際に臨済宗に改宗されたという。

東光寺
とうこうじ

[現在地名]秦野市南矢名

金目かなめ川の北に広がる台地の北側窪地、下大槻しもおおづきとの境にある。天台宗、医王山薬師院と号するが、本尊は阿弥陀如来。下大槻分に属する境外堂薬師堂がある。

万治四年(一六六一)の東光寺縁起(当寺蔵)によると、天平一四年(七四二)行基が鎮守諏訪明神の託宣により薬師如来を彫像安置。治承三年(一一七九)領主野田氏が大檀越となり、当時二他子台と称された薬師原やくしばらに堂塔を建立し、時の住職運栄を中興開山とした。建保元年(一二一三)和田合戦の際焼失。同六年二世静然律師が、風雨の害に遭いやすい二他子台を避けて現在地に移す。永禄年中(一五五八―七〇)武田信玄が小田原攻めの時、伏兵を恐れて付近の村村を焼払ったが、薬師堂のみ災難を免れたため霊験ありとして甲斐国に移された。

東光寺
とうこうじ

[現在地名]目黒区八雲一丁目

泰陽山と号し、曹洞宗。本尊は釈迦如来。一四世紀後半に吉良氏の祖である吉良治家が早世した嫡子祖朝のために創建した寺で、当初は臨済宗東岡とうこう寺と称した(「風土記稿」など)。年未詳九月吉日の吉良頼貞判物写(同書)には治部大輔治家の建立と明記されている。大永年間(一五二一―二八)に入って吉良頼貞によって中興され、曹洞宗となったという。中興開山は太古禅梁(永禄九年没)とも、天桂(永禄二年没)とも伝える(同書)。天文一三年(一五四四)一〇月一六日のあんとう道安判物写(同書)に「東岡寺」とみえる。同二〇年七月一日、吉良頼康ふすま村東岡寺に「よしくほ」の寺地を寄進した(「吉良頼康判物写」同書)

東光寺
とうこうじ

[現在地名]大宮市宮町

旧中山道沿い東側にある。曹洞宗で、大宮山と号する。本尊は薬師瑠璃光如来。染谷そめや常泉じようせん寺末であった。「風土記稿」によると、寺基を開いたのは紀伊国熊野那智山光明こうみよう房の東光坊阿闍梨宥慶という。宥慶は関東下向の際この地を訪れ、黒塚くろづか(現堀の内町)の鬼をその法力で退治し、その古塚のそばに東光坊と号する坊舎を構えたことに始まると伝えるが、詳細は不明。初めは天台宗とも真言宗とも伝えるが、その後梁室元棟が中興し曹洞宗東光寺と改めたという。

東光寺
とうこうじ

[現在地名]宇佐市江須賀 屋敷

江須賀えすかの西部にある。医王山と号し、曹洞宗。本尊は薬師如来。「江嶋大鑑」によると貞治元年(一三六二)の創建で、往古は臨済宗であったという。また「柳ヶ浦町史」は今藤いまふじ(江島別符内)の名主による建立かと推定している。その後衰微していたが、江戸時代に星岸が再興し、万治元年(一六五八)には基外を中興開山として長門国功山こうざん(現山口県下関市)末となって現宗派に改めたと伝える。

東光寺
とうこうじ

[現在地名]玉川村日影

日影ひかげの南部、雷電らいでん山の東麓にある。仏日山と号し、日蓮宗。かつては池上本門寺の末寺であった。本尊は一塔両尊で、また日蓮像を安置する。貞享年間(一六八四―八八)頃の東光寺由緒書上(大田区史)によれば、永禄九年(一五六六)の草創といい、立正院日正が開山、上田安独斎朝直が開基檀越と伝える。天正九年(一五八一)七月一日には上田長則が、同一五年一二月二五日には上田憲定が、それぞれ立正院(東光寺)御同宿中に宛てて寺中法度(いずれも寺蔵)を下しており、戦国時代には松山まつやま(現吉見町)城主上田氏(三代)との関係が深かったことが知られる。

東光寺
とうこうじ

[現在地名]熊本市東子飼町

子飼こかい地域の南側、碩台せきだい小学校の北側、源空げんくう寺東隣にあり白川に沿う。正法山と号し、日蓮宗、本尊薬師如来、脇侍は日光・月光菩薩。本尊は行基作と伝え、子飼の薬師として尊崇され、江戸時代の絵図にも東光寺薬師と記され、東光寺の東側・西側を走る通りを薬師やくし丁と称した。「国誌」に「和銅年中ノ草創ニテ、本尊薬師仏ト云、堂守蓮華院ト云山伏在居、蓮政寺檀那ニテ法華経ヲ尊信シ、蓮政寺三世日選上人ニ当寺ヲ譲リ、寛永年中日選再興之」とある。

東光寺
とうこうじ

[現在地名]下関市豊前田町一丁目

日和ひより山の南西麓にある。曹洞宗で浄瑠璃山と号し、本尊は薬師如来。

寺伝によれば、薬師如来は平知盛の守護仏といわれ、聖徳太子一五歳のときの作という。のち文覚の持尊仏となり、源氏のために隠岐に流される途中、正治元年(一一九九)霊夢によってこれを新地浜しんちはまの石上に安置した。村人はこれを尊んで一宇を創建、これが当寺の前身の薬師堂で、享保年中(一七一六―三六)に新地浜が萩毛利家の御用地となったため現在地に移転した。

東光寺
とうこうじ

[現在地名]総和町前林

前林まえばやし北部の台地に所在。山門を入った右にある椎の木は樹齢八〇〇年と伝えられる。前林山と号し、真言宗豊山派。本尊大日如来。寺伝によると伝真院二品親王によって承平元年(九三一)に開基された。平将門の乱の兵火で堂宇が焼失。天承元年(一一三一)に再興され教法道場となった。江戸時代は朱印地一五石を有し、末寺三〇を数えた。寛保三年(一七四三)堂宇焼失、翌年から住持来圭が再建に努力し、宝暦五年(一七五五)堂宇と供養塔を建立。

東光寺
とうこうじ

[現在地名]中里村倉俣 倉俣

本村倉俣くらまたの集落の南方にあり、東側に御屋敷おやしきの地字がある。曹洞宗、双玉山と号し、本尊薬師瑠璃光如来。もと千手せんじゆ(現川西町)長福ちようふく寺末寺。境内一千一五一坪。嘉吉元年(一四四一)長福寺三世舜葩の開山とするが、草創はより古く、嘉吉年間に中興されたものであろう。

東光寺
とうこうじ

[現在地名]愛東町平尾

平尾ひらお集落の北東にある。白鹿山巨徳院と号する。浄土宗。本尊阿弥陀如来。寺伝では聖徳太子の草創で、源信の入寺後天台宗となり、古くは佐々木家の崇敬厚かったが、永禄(一五五八―七〇)末年の兵火で焼失、弥陀・薬師の二尊のみ残り、仮堂に安置していたのを、慶長年中(一五九六―一六一五)深誉が中興し、浄土宗に転じたという。貞享二年(一六八五)向誉のとき寺地が拡張された(愛智郡志)

東光寺
とうこうじ

[現在地名]八百津町八百津

八百津の薬師前やくしまえにあり、医王山と号し、高野山真言宗。本尊薬師如来。創立年月日は不詳だが、「新撰美濃志」によると、天永年中(一一一〇―一三)鳥羽天皇の勅願により六〇余州に建立された天永てんえい寺の一つで、美濃の天永寺は東光寺であるという。もと三本松(薬師段ともいう)とよばれた所にあったが、天正年中(一五七三―九二)火災にかかり焼失した。天正一八年稲葉方通が再興して寺禄を寄進した。

東光寺
とうこうじ

[現在地名]下津町上

小原山と号し、西山浄土宗。本尊薬師如来。永仁六年(一二九八)一一月一九日の浜中南荘惣田数注進状写(又続宝簡集)に「三反 薬師堂免」とあるのが当寺の免田にあたる。本尊の秘仏木造薬師如来坐像(県指定文化財)は欅の一木造で、藤原時代の作。境内の観音堂にある多聞天・増長天・菩薩像なども藤原仏で、木造天部立像(四体)として県指定文化財。

東光寺
とうこうじ

[現在地名]堺市宿院町西二丁

阪堺電軌阪堺線宿院しゆくいん駅の南西にあり、高野山真言宗、山号瑠璃山、本尊薬師如来。寺伝によると寛平七年(八九五)化翁道者の開基で、本尊薬師如来は堺浦海中に出現したものという(「堺南北寺庵本末開基宗旨改帳」覚応寺文書)。一に行基開創寺院という(堺鑑)。本尊ははまの薬師とよばれ参詣者を集め(和泉名所図会)、近世には毎年五月一二日、九月一二日に薬師護摩供会が修された(全堺詳志)

東光寺
とうこうじ

[現在地名]上磯郡上磯町中央二丁目

市街地の中央、上磯町役場の西側に広徳こうとく寺・禅林ぜんりん寺と並んで所在する。真宗大谷派。青竜山と号し、本尊は阿弥陀如来。享保元年(一七一六)松前専念せんねん寺七世瑞玄が弟の禅玄と徒弟の知願を留守居として同寺掛所を造立したのに始まるという(寺院沿革誌)

東光寺
とうこうじ

[現在地名]玄海町大字有浦下字前田

有浦ありうら集落の南西、下村しもむら川の下流右岸にある。曹洞宗で、瑞泉山と号する。明応二年(一四九三)二月、大愚探禅の開山。

本尊は薬師如来で、寺仏に国指定重要文化財の木彫薬師瑠璃光如来像がある。坐像、漆箔、坐高二尺四寸、面長九寸五分、膝張二尺二寸五分で藤原末期の作。

東光寺
とうこうじ

[現在地名]鎌倉市寺分

駒形こまがた神社の南西、字西屋敷にしやしきにある。高野山真言宗、天照山薬王院と号する。本尊不動明王。もと手広青蓮てびろしようれん寺末。寺伝では永享三年(一四三一)、高野山慈眼じげん院の法印霊範が隠居所として中興したという。寺蔵の過去帳では、天文一九年(一五五〇)没した阿闍梨秀円をも中興開山とする。

東光寺
とうこうじ

[現在地名]勝央町東吉田

東吉田ひがしよしだ集落の南部にある高野山真言宗寺院。寿福山と号し、本尊無量寿如来。東光寺建立之事(美作一国鏡)によると慶長一七年(一六一二)朗快の開基という。朗快は俗名を長尾保近といい、慶長三年病気の伯父善乗坊によばれ、豊臣秀吉の菩提を弔うよう頼まれた。保近は善乗坊と秀吉の死後出家し、善丘と改めて全国の霊山などを巡り、慶長一七年当地に着き、夢告に従い当寺を建てたという。

東光寺
とうこうじ

[現在地名]瀬戸市三沢町

薬王山と号し、臨済宗妙心寺派。本尊観世音菩薩。雲心首座(永正一〇年没)の開山、中水野なかみずの村の豪農桜井七郎左衛門の開基と伝え、義湛全徳を中興開山とする。明治一三年(一八八〇)住職小野祖房は友人のキリスト教伝道師山本秀煌を招き、本堂に講席を設けて檀家の者にも聞かせるなど仏教と切支丹との融和を図ろうとした。

東光寺
とうこうじ

[現在地名]七宝町伊福 弐の割

薬王山と号し、単立寺院。本尊阿弥陀如来像。天平年中(七二九―七四九)江沼宮内が四国修行中の行基を招き国土安穏の伽藍を建てたのに始まるという。縁起によれば一二坊があって、今も地名に大本坊おおほんぼうの名が残る。

東光寺
とうこうじ

[現在地名]土浦市大手町

おお町寄りにある。医王山と号し、曹洞宗。本尊は大日如来。草創の年月は不詳。境内の薬師堂は入母屋造・本瓦葺・三間四方で、元文四年度薬師堂建立原簿(当寺蔵)によれば、三世住職蘭光州芳が享保一六年(一七三一)から八ヵ年の托鉢で集めた浄財をもとに建立され、元文四年(一七三九)に落成したが、建設には女性が三銭講・薬師講をつくって協力した。

東光寺
とうこうじ

[現在地名]東郷町春木 西前

医王山と号し、浄土宗西山禅林寺派。本尊は薬師瑠璃光如来。駿河街道の南に位置し、金毘羅・秋葉・山神などの祠があった(天保村絵図)。「徇行記」に「境内四畝二十歩除地、此寺草創ハ天正十四丙戌ノ年ニテ、開山ハ本山祐福寺十五世朝空清光(清元)和尚也」とあり、寺伝によれば、天正年間(一五七三―九二)に堂宇が焼失したため、氏神(春日社)の境内に移り、このとき浄土宗に改めたとある。

東光寺
とうこうじ

[現在地名]富良野市日の出町

金峰山と号し、真宗大谷派。本尊阿弥陀如来。明治三二年(一八九九)明野獅含が扇山おうぎやまに説教場を開設したことにはじまる。富良野市では最も早く創建された。鉄道の開通によって市街地が扇山から現在の市街地に移ったため、同三五年現在地に移された。

東光寺
とうこうじ

[現在地名]十和田湖町沢田 寺ノ上

沢田さわだの中心集落の中ほどにある。沢田山と号し、曹洞宗。本尊は釈迦如来。寛政年間(一七八九―一八〇一)の「邦内郷村志」に「東光寺 沢田山五戸高雲寺末寺」とある。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

日本大百科全書(ニッポニカ) 「東光寺」の意味・わかりやすい解説

東光寺
とうこうじ

山口県萩(はぎ)市椿東(ちんとう)にある黄檗(おうばく)宗の寺。護国山(ごこくさん)と号する。1691年(元禄4)第3代長州藩主毛利吉就(もうりよしなり)により建立され、黄檗山第2世木庵性瑫(もくあんしょうとう)の弟子慧極道明(えごくどうみょう)を開基とする。大照院と並ぶ毛利家の菩提(ぼだい)寺である。代々の藩主の帰依(きえ)を受け、文化(ぶんか)年間(1804~18)の最盛時には堂塔40棟を数え、黄檗三叢林(そうりん)の随一であった。現在、本堂(大雄宝殿)、総門、三門、鐘楼(いずれも国の重要文化財)などに往時の隆盛をしのぶことができる。境内には吉就ら5藩主およびその夫人の墓、幕末の志士、吉田松陰(しょういん)、高杉晋作(しんさく)、久坂玄瑞(くさかげんずい)の墓がある。花鳥の屏風(びょうぶ)、釈迦(しゃか)・文殊(もんじゅ)・普賢(ふげん)像三幅対など寺宝も多い。

[大鹿実秋]


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デジタル大辞泉プラス 「東光寺」の解説

東光寺〔山口県〕

山口県萩市にある黄檗宗の寺院。萩藩主、毛利家の菩提寺のひとつで、初代を除いた奇数代の藩主の墓がある。大雄宝殿、鐘楼などが国の重要文化財に指定されている。

東光寺〔静岡県〕

静岡県熱海市にある真言宗の寺院。山号は日金山。応神天皇の時代の開山との言い伝えがある。本尊の延命地蔵菩薩は源頼朝が奉納したもの。

東光寺〔山梨県〕

山梨県甲府市にある寺院。武田信玄の長男、義信が反逆罪で幽閉された地。仏殿は国の重要文化財に指定されている。

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事典・日本の観光資源 「東光寺」の解説

東光寺

(長崎県北松浦郡佐々町)
次代(あす)に残そう長崎百景」指定の観光名所。

出典 日外アソシエーツ「事典・日本の観光資源」事典・日本の観光資源について 情報

世界大百科事典(旧版)内の東光寺の言及

【十国峠】より

…古くは日金(ひがね)山といったが,これは火ヶ峰の転訛した名で,地形も峠と呼ばれるものの鞍部(あんぶ)ではない。かつて,火牟須比命(ほむすびのみこと)をまつる伊豆山神社の旧祀とみられる東光寺(日金地蔵堂)があった。峠の南方の熱海峠から南へ伊豆スカイラインが,また北方の箱根峠へは主要地方道熱海・箱根峠線が通じ,登り口から山頂の展望台までケーブルカーが通じる。…

※「東光寺」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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