コトバンクはYahoo!辞書と技術提携しています。

日像 にちぞう

7件 の用語解説(日像の意味・用語解説を検索)

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

日像
にちぞう

[生]文永6(1269)
[没]興国3=康永1(1342).11.
鎌倉時代日蓮宗の僧。7歳で出家。兄の日朗に従って身延山に登り,日蓮から経一麿の名を授かった。日蓮の没後剃髪して日像と称し日朗に仕えていたが,のち日蓮の遺跡を巡拝。永仁2 (1294) 年京都に出て法華宗を宣揚した。

本文は出典元の記述の一部を掲載しています。

出典|ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典
Copyright (c) 2014 Britannica Japan Co., Ltd. All rights reserved.
それぞれの記述は執筆時点でのもので、常に最新の内容であることを保証するものではありません。

デジタル大辞泉の解説

にちぞう〔ニチザウ〕【日像】

[1269~1342]鎌倉後期の日蓮宗の僧。下総(しもうさ)の人。通称、肥後阿闍梨(あじゃり)。日蓮日朗(にちろう)に師事。京都に入り三度追放されたが、妙顕寺を創建し京都布教の基盤をつくった。著「秘蔵集」など。

出典|小学館 この辞書の凡例を見る
監修:松村明
編集委員:池上秋彦、金田弘、杉崎一雄、鈴木丹士郎、中嶋尚、林巨樹、飛田良文
編集協力:曽根脩
(C)Shogakukan Inc.
それぞれの用語は執筆時点での最新のもので、常に最新の内容であることを保証するものではありません。

デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説

日像 にちぞう

1269-1342 鎌倉-南北朝時代の僧。
文永6年生まれ。日蓮宗。四条門流の祖。下総(しもうさ)平賀(千葉県)の人。日朗,日蓮に師事。日蓮の遺命により京都布教につとめたが,他宗の圧迫により3度京都を追放される。元亨(げんこう)元年京都に妙顕寺をひらき,建武(けんむ)元年同寺は勅願寺となった。康永元=興国3年11月13日死去。74歳。俗姓は平賀。通称は肥後阿闍梨(あじゃり)。号は竜華寿院。著作に「法華宗旨問答抄」「本尊相承」など。

出典|講談社 この辞書の凡例を見る
(C)Kodansha 2015.
書籍版「講談社 日本人名大辞典」をベースに、項目の追加・修正を加えたデジタルコンテンツです。この内容は2015年9月に更新作業を行った時点での情報です。時間の経過に伴い内容が異なっている場合がございます。

朝日日本歴史人物事典の解説

日像

没年:康永1/興国3.11.13(1342.12.11)
生年:文永6(1269)
鎌倉後期の日蓮宗の僧。日蓮宗最初の京都弘通(布教)を行い,妙顕寺を拠点に教団発展の礎を築いた。京都妙顕寺開山,肥後房,肥後阿闍梨と号す。下総国(千葉県)平賀氏の出自。7歳で日朗に師事。のち身延の日蓮の弟子となり経一丸を賜り本尊を授与される。日蓮の滅後,肥後房日像と名乗り日朗のもとで研鑽。永仁1(1293)年,日蓮の遺命を奉じて京都布教を決行,日蓮の遺跡を巡拝しつつ北陸を経て同2年に上洛した。その途次,能登の真言僧を帰伏させ日乗と名乗らせた。上洛後,京都の有力町衆を信徒と化したが,叡山などの圧力も強まり,徳治2(1307)年の土佐配流をはじめとし翌3年の紀伊流罪,元亨1(1321)年の洛内追放に至る3度の弾圧を受けた。これを三黜三赦と呼んでいる。 その間,迫害にめげず延慶4(1311)年に綾小路大宮に造営していた法華堂を元亨1年に今小路に移して妙顕寺を開創。元弘3(1333)年,護良親王の令旨により後醍醐天皇の京都還幸を祈り,翌建武1年に妙顕寺を勅願寺とするという後醍醐天皇の綸旨を得た。東国だけの小教団は,ここで,中央政府の公認を受けた。次いで建武3(1336)年には,室町将軍家・北朝光厳院の祈祷所となるなど,妙顕寺は公武社会に不動の地位を占めた。暦応4(1341)年,光厳院の院宣を受け寺地を四条櫛笥西頬に賜って,妙顕寺をそこに移転。妙顕寺の流れを四条門流と呼ぶゆえんである。康永1(1342)年後事を弟子大覚に託し入寂。延文3(1358)年大覚の祈雨により,日蓮に大菩薩,日朗,日像に菩薩号を賜った。<参考文献>立正大学日蓮教学研究所編『日蓮教団全史』上

(佐々木馨)

出典|朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版
それぞれの用語は執筆時点での最新のもので、常に最新の内容であることを保証するものではありません。

世界大百科事典 第2版の解説

にちぞう【日像】

1269‐1342(文永6‐興国3∥康永1)
鎌倉・南北朝期の日蓮宗の僧。肥後阿闍梨(あじやり),肥後房ともいう。日蓮宗を最初に京都にひろめ,京都妙顕寺開山。下総国平賀(千葉県)の豪族平賀忠晴の子。1275年(建治1)日朗の門に入り,のち身延に登って晩年の日蓮に師事して行学に励んだ。日蓮臨終のとき,京都弘通(ぐづう)と宗義の天奏を委嘱され,ついに94年(永仁2)宿願の上洛弘通を開始した。しかし,その初期は山門などの反発が激しく,朝廷から3度も洛外追放の処分を受けた。

出典|株式会社日立ソリューションズ・クリエイト
All Rights Reserved. Copyright (C) 2015, Hitachi Solutions Create,Ltd. 収録データは1998年10月に編集製作されたものです。それぞれの用語は執筆時点での最新のもので、常に最新の内容であることを保証するものではありません。また、本文中の図・表・イラストはご提供しておりません。

大辞林 第三版の解説

にちぞう【日像】

1269~1342) 鎌倉末期の日蓮宗の僧。七歳で出家して日蓮・日朗に師事した。のち京都に出て宗旨を広めたが、三度追放された。1321年京都で最初の日蓮宗寺院の妙顕寺を開創。通称、肥後阿闍梨。

出典|三省堂
(C) Sanseido Co.,Ltd. 編者:松村明 編 発行者:株式会社 三省堂 ※ 書籍版『大辞林第三版』の図表・付録は収録させておりません。 ※ それぞれの用語は執筆時点での最新のもので、常に最新の内容であることを保証するものではありません。

日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

日像
にちぞう
(1269―1342)

鎌倉末~南北朝時代の日蓮(にちれん)宗の僧。下総(しもうさ)国(千葉県)の人。日蓮の孫弟子で肥後阿闍梨(ひごあじゃり)と号し、日蓮宗が京都に進出する端緒を開いた。7歳のとき日朗(にちろう)に従って出家し、身延(みのぶ)に隠棲(いんせい)した日蓮のもとで修学する。1293年(永仁1)に日蓮の遺志を継いで京都伝道を志して出発し、北陸を経由して入洛(にゅうらく)。京都では、柳酒屋仲興(やなぎざかやなかおき)らをはじめとする新興の商工業者に教えを広めたが、三度にわたって追放の憂き目にあう。しかし、建武(けんむ)新政の動乱の渦中にあって、洛中に構えた妙顕寺は、後醍醐(ごだいご)天皇の綸旨(りんじ)によって勅願所となり、さらに足利(あしかが)将軍家の祈願所となる。弟子の大覚が山陽地方に伝道したのをはじめ、教線は畿内(きない)と周辺部に広がり、京都日蓮宗の発展の礎(いしずえ)を築いた。[中尾 尭]

出典|小学館 日本大百科全書(ニッポニカ) この辞書の凡例を見る
(C)Shogakukan Inc.
それぞれの解説は執筆時点のもので、常に最新の内容であることを保証するものではありません。

日像の関連キーワード日薩日宣沙門日東法明寺本門寺一致派本化東京都新宿区原町久保田日亀富木常忍

今日のキーワード

トランスアジア航空

台湾・台北市に本拠を置く航空会社。中国語名は復興航空。1951年、台湾初の民間航空会社として設立。83年に台湾の国産実業グループに経営移管され、組織改編を実施した。92年に国際チャーター便の運航を始め...

続きを読む

コトバンク for iPhone

日像の関連情報