日新館跡(読み)につしんかんあと

日本歴史地名大系 「日新館跡」の解説

日新館跡
につしんかんあと

[現在地名]会津若松市米代一丁目

現在の県立若松商業高校の北向い側にあった会津藩の藩校跡で、現在も天文台石垣が残る。かつては米代二之よねだいにの丁の北側にあり、北は米代一之丁、東は大町おおまち通、西は桂林寺町けいりんじまち通であった。会津藩の学問的伝統は古く、藩祖保科正之が山崎闇斎や吉川惟足を招くなど、きわめて学問好きであり、また民間でも寛文四年(一六六四)横田俊益が稽古けいこ堂を開くなどがあった。


日新館跡
につしんかんあと

[現在地名]厳原町中村

中村なかむら館跡の南にある対馬藩の藩校。清水しみず山の東麓、八幡宮太平たいへい寺の間にある。元治元年(一八六四)二月対馬藩は時勢に順応すべく、文武両道を振興して尊王の大義を明らかにし、攘夷士気を振作せんと宣言して、文武両館を設け、日新館と称した。老公の宗義和はこれを讃し、隠居屋敷となっていた中屋敷を校舎として提供。総裁に古川将監、主任に幾度八郎、学頭大浦遠、教授樋口与左衛門・川本九左衛門という陣容であった。これより先、尊王派の実力者である大浦教之助・幾度八郎を家老に擁し、文久二年(一八六二)長州藩との同盟を成立させ、翌年攘夷の勅書及御沙汰書を下された対馬では士気大いに振るい、入門者は二〇〇人に達した(対馬遺事)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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