天体を観測する装置をもっている施設をいう。かつては星の位置を観測するための小規模な施設も天文台とよび、今日でもアマチュア天文愛好者が個人的につくったり、学校などにつくられる小さな望遠鏡とドームのある施設を天文台とよぶことも多い。しかし、通常、天文台といえば、多数の天文学者や技術者がおり、天体観測装置を使って天体現象を常時、組織的に観測研究し、理論的に解明していく施設をさす。そのため星や地球の位置や動きを観測する子午儀(しごぎ)や子午環(しごかん)、星の光を調べるための大口径望遠鏡などが装置され、データの整理や理論的な計算のためのコンピュータが置かれている。さらに研究をより有効に行うための付属設備として、写真装置・光電装置などの受光装置、星図・星表などを含む図書や資料を備えている場合が多い。
[磯部琇三 2015年5月19日]
天文台は、成り立ちや所属の点から、国家的な役割をもつ中央天文台、大学附属の天文台、財団または個人設立の天文台の三つに大きく分けられる。
天文学はもっとも古くから行われた学問の一つであり、その目的は天体(太陽・月・惑星)の運行を調べ、明らかにすることによって季節を知ることであった。暦の作成は、各国・各時代の為政者にとっては国家を統治していくうえで重要であった。こうした天文学の役割は近世以降も変わらず続いており、各国の天文台で暦が作成されている。1492年にコロンブスがアメリカ大陸を発見して以来、ヨーロッパ各国は世界に航海するようになり、それとともに安全な航海のために星の位置や時刻を精確に定める必要が生じた。こうした目的で建てられた最初の近代的な天文台は1637年のデンマークのコペンハーゲン天文台であった。以後、フランスのパリ天文台、イギリスのグリニジ天文台などが続き、19世紀にはアメリカ海軍天文台や東京天文台(現、国立天文台)が建てられた。これらの天文台はいずれも各国の暦編纂(へんさん)の仕事を担っており、中央天文台的な性格をもつ。
1687年のニュートンによる「万有引力の法則」の発見により、天体の運行が力学的に実証できるようになり、天体現象は科学的な研究の対象となった。グリニジ天文台のハリーによるハリー彗星(すいせい)の回帰の発見(1705)や、パリ天文台のルベリエによる海王星の予知(1846)などがその好例である。さらに1815年のフラウンホーファーによる太陽スペクトルの観測や、1867年のセッキによる星のスペクトル観測によって恒星の研究が始まった。このような研究的な観測は大学附属の天文台で行われることが多い。アメリカのハーバード大学天文台、イギリスのケンブリッジ天文台、ドイツのハイデルベルク天文台、日本の京都大学の花山(かざん)天文台などはそうした性格をもつ天文台である。
19世紀末から20世紀初めにかけて、アメリカで相次いで個人や財団の寄付による天文台が生まれた。リック天文台、ヤーキス天文台、マクドナルド天文台、ヘール天文台などがその例である。しかし天文学の進展につれて、一個人だけの寄付のみで天文台を運営することが困難なほど規模が拡大し、今日では大学附属や国立の天文台に移行している場合が多い。
天文学の多様化に伴い、各天文台の性格も固定的でなくなってはいるが、その研究内容から天文台を分類することもできる。
パリ天文台や日本の国立天文台などはかなり広範囲な分野の観測研究を行っているが、その一方で、研究内容を絞った天文台もある。暦の編纂はアメリカ海軍天文台や日本の海上保安庁水路部航法測地課で集中的に行われ、地球の運動の研究はイタリアのカリアリ天文台や岩手県奥州(おうしゅう)市の国立天文台水沢VLBI観測所などが中心である。また1930年にアメリカのジャンスキーによる電波観測によって始まった光以外の波長域での観測が1960年以降急速に進み、電波観測を中心とする天文台が誕生した。イギリスのジョドレルバンク天文台やアメリカのグリーンバンクの国立電波天文台、日本の国立天文台野辺山(のべやま)太陽・宇宙電波観測所(現、野辺山宇宙電波観測所)などがそれである。赤外線観測を中心とするアメリカのワイオミング天文台もある。その他の波長域観測は大気圏外に出なければできないが、人工衛星やロケット、気球を打ち上げてγ(ガンマ)線、X線、紫外線、遠赤外線で観測し、それらのデータを地上に送る方法で観測される。X線では、ハーバード大学天文台が中心になって打ち上げたアインシュタイン衛星、日本の宇宙科学研究所(現、宇宙航空研究開発機構)が打ち上げた「てんま」衛星などがあり、紫外線・赤外線では、アメリカ航空宇宙局による国際紫外線天文衛星、赤外線天文衛星(IRAS)がある。
従来の天文学では、地上に落下する隕石(いんせき)を除けば、それぞれの天体からくる電磁波の情報しか得ることができなかった。しかし、マリナーやパイオニアなどの惑星間空間を飛ぶ探査機の開発により、それぞれの天体の現場に行って観測できるようになった。こうした探査機も一種の天文台といえるであろう。
以上にみてきたように、天文学の多様化に伴って天文台(研究所とよぶ場合もある)の種類も多様化しており、天文学と物理学、地球物理学、化学などとの境界の分野の研究所も含まれるようになってきている。
[磯部琇三 2015年5月19日]
非常に古い歴史を有する天文学は、早くから、一方では自分たちが住む世界がどうなっているかという宇宙観(世界観)の問題として哲学的に考察されていたが、他方では昼夜の区別や季節を知るため、とくに遊牧民族や農耕民族の間で天体観測として始まった。初期には天体の方向や角度を決める簡単な装置が考えられた。イギリスのストーンヘンジは太陽の方向を知るために巨石を並べた遺跡である。エジプトや中国ではかなり早い時期に天文台が設けられ、太陽・月・惑星、星座の観測が行われた。メソポタミアのバベルの塔もそうした天文台の一つであった。
古代の天文観測といえどもかなり高い精度で行われており、日月食の予報なども行われた。このような天文学が古代ギリシアに伝えられ、ソクラテスやプラトンのような宇宙観がつくられた。ギリシア時代にもっとも精力的に天体観測に取り組んだのはヒッパルコスである。彼は紀元前2世紀ごろにエーゲ海のロードス島に天文台をつくり、天体位置の精確な観測を行い、恒星の位置カタログをつくって地球自転軸の首振り運動による恒星の歳差運動を発見した。またそのカタログは後のハリーによる恒星の固有運動の発見にも役だった。
中国では漢の時代に渾天儀(こんてんぎ)という天体の位置観測の装置がつくられ、次々と新しい暦法が考案された。中国から中央アジアを征服した元(げん)のチンギス・ハンの孫、フラグ・ハンHülegü Khan(1218ころ―1265)は中央アジアのマラゲに天文台をつくり観測させた。またフビライ・ハンが1280年につくった北京(ペキン)の天文台の観測装置は当時のヨーロッパのものより優れており、その観測結果はルネサンス以降のヨーロッパの天文学に大きな影響を与えた。
中国の影響は朝鮮半島、日本にも現れた。朝鮮半島の慶州には、天文台跡が現存するものとしては東洋最古の瞻星台(せんせいだい)がつくられ、日本には553年(欽明天皇14)に百済(くだら)の暦博士が渡来して中国の暦法を伝えた。以後、19世紀末まで日本の天文学は暦の作成がもっとも重要な役割で、土御門(つちみかど)家が司天台(してんだい)という天文台を設けて観測を行った。江戸時代、1684年(貞享1)に幕府が天文台を設置し、時とともに拡張されて台員が60名を超す規模になった。各藩でも天文台をもつものがあり、薩摩(さつま)藩の天文館は今日も地名として残っている。いずれの天文台も渾天儀、子午儀を備え、より正しい暦をつくる努力を払った。
ヨーロッパでも暦の作成が中心的に行われた。ユリウス暦やグレゴリオ暦の制定は、長年月の観測データの蓄積によってなしえたものである。しかし、実証的な観測研究はあまり行われず、固定した宗教思想にとらわれ、地球中心的な天動説に長い間支配された。近世、ルネサンスの時代を迎え、天文学にも新しい流れが加わり、コペルニクスの地動説が現れた。このことは、15世紀にスペイン、オランダ、イギリス、フランスなどが世界中を航海するようになり、航海暦作成に必要な天体観測が進められたことと深くかかわっている。
このころ精力的に天体観測をしたのはデンマークのティコ・ブラーエである。彼は1576年に王室からベーン島に天文台を建ててもらい、月・惑星・恒星の観測を続け、より精度の高い観測を行うために、天球儀や六分儀、壁面四分儀などを作製した。それらの装置は、1608年にリッペルスハイHans Lippershey(1570―1619)によって望遠鏡が発明されるまでは最高の器械であった。ティコ・ブラーエの膨大な観測データが、弟子のケプラーによる「ケプラーの三法則」の発見へとつながった。
[磯部琇三 2015年5月19日]
天文学の発展に伴い、天文台が行う観測の内容は多様化する。ガリレイは1609年に初めて望遠鏡を天空に向け、太陽の黒点、月のクレーター、木星の衛星など多くの事実を発見した。これらの発見は、それまでの天体の位置を観測するだけの天文学から、まったく新しい天文学への一歩をしるすものであった。そして1637年のコペンハーゲン天文台、1650年ポーランドのダンツィヒ天文台、1667年パリ天文台、1670年スウェーデンのルンド天文台、1675年グリニジ天文台と、相次いで望遠鏡を備えた天文台が建てられた。
パリ天文台の初代台長はイタリア人のカッシーニで、彼は土星の四つの衛星や土星の環(わ)にある「カッシーニの空隙(くうげき)」を発見した。グリニジ天文台はイギリス王チャールズ2世の命でつくられ、初代台長はフラムスティードである。わずか数名の台員しかいなかったが、フラムスティード星図を完成して天体の精密位置観測の基礎をつくった。子午儀、子午環による観測が中心であったが、その膨大なデータがのちにグリニジが世界の子午線の基準となる要因となった。パリ、グリニジ両天文台とも大都市の中にあって、しだいに街の光のために観測に適さなくなった。パリ天文台は19世紀終わりごろにパリ郊外ムードンに天文台を設立、グリニジ天文台も1950年前後にサセックスのハーストモンソーに移転した。両天文台とも多様な天文学に対応するために拡張され、位置観測用の望遠鏡ばかりでなく、口径100センチメートル級の望遠鏡を備えるようになった。しかし1997年グリニジ天文台は閉鎖され、望遠鏡などが移されたスペイン領カナリア諸島で観測活動が続けられるようになった。
天体観測に望遠鏡を使うのは、光がたくさん集められるばかりでなく、角分解能のよい観測ができるためである。しかし地球には大気があり、その揺らぎのために、星像は1秒角程度に広がる。角分解能が、口径10センチメートル程度で1秒角程度であるので、位置観測にはせいぜい20センチメートルぐらいの望遠鏡が適しており、各天文台に備えてある。
一方、より暗い天体の観測のためには、より口径の大きい望遠鏡が必要である。大型のレンズ製作が技術的に困難であった18世紀に、レンズにかえて金属の表面に銀めっきした望遠鏡が考案された。1789年F・W・ハーシェルは口径122センチメートルのものをつくり、暗い星雲の観測を行った。しかし銀めっきの金属鏡はさびやすく扱いにくいため、その後発展しなかった。
19世紀後半に大型レンズが製作できるようになり、各国の天文台は競って大口径の屈折望遠鏡をつくるようになった。1873年アメリカ海軍天文台が65センチメートル屈折望遠鏡をつくったのをはじめ、1880年オーストリアのウィーン天文台が67センチメートル、1885年ロシアのプルコボ天文台が76センチメートル、1886年フランスのニース天文台が74センチメートル、1888年アメリカのリック天文台が90センチメートル、1897年アメリカのヤーキス天文台が101センチメートルの屈折望遠鏡をそれぞれ完成させたが、それらは完成時点で世界最大の望遠鏡を目ざしたものであった。
ウィーン天文台は、内陸国オーストリアが、他国のように航海などの必要からではなく、帝国の力を誇示するために、1874~1880年につくったものである。そのためこの天文台は十分に活躍しなかったが、1970年ごろにウィーン郊外のショーフルに口径150センチメートル反射望遠鏡をつくり、着実な観測を行っている。
プルコボ天文台はロシアでもっとも古い天文台で、1839年にサンクト・ペテルブルグ郊外につくられた。76センチメートル屈折望遠鏡は第二次世界大戦で破壊されたが、65センチメートルのマクストフ・カメラなどがある。またプルコボの大気差表は、今日も位置観測の補正を行う際に使われている。
ニース天文台はパリの銀行家ビショップハイムRaphaël Bischoffsheim(1823―1906)の寄付によってつくられ、二重星の観測を行っていたが、その後パリ天文台附属となり、1960年代にニース大学附属天文台となり、現在では大型コンピュータを備え、フランスでも一、二を競う大天文台となっている。
アメリカの天文台は19世紀中ごろまであまり活躍していない。19世紀末になり、新興国アメリカの大富豪の寄付によって、リック天文台やヤーキス天文台が建てられた。1939年テキサス州のマクドナルド天文台に口径208センチメートルの反射望遠鏡が備えられ、1959年リック天文台に305センチメートル反射望遠鏡、1968年にマクドナルド天文台に270センチメートル反射望遠鏡が完成した。その後、リック天文台はカリフォルニア大学の、マクドナルド天文台はテキサス大学の附属天文台となっている。
1839年の写真術の発明は天文学に大きな影響を与えた。写真の露出時間を長くすることで光を蓄積できるようになり、またデータを保存しておくことが可能になった。写真術を天体観測に応用したのはハーバード大学天文台にいたことのあるドレーパーで、1840年のことである。天体観測への写真術の応用は月の撮影から始まり、オリオン星雲、恒星のスペクトルなどの写真へと拡大していった。
ハーバード大学天文台は1839年設立のアメリカでもっとも古い天文台であるが、ピッカリング台長の時代に完成した20万個余りの恒星のスペクトル・カタログは、恒星の性質を明らかにしたHR図(Hertzsprung-Russell Diagram)の作成に大きく役だち、現在でもスペクトル分類の基礎的カタログとして使われている。
望遠鏡に入ってくる光は一つの星からだけではない。同時に多くの星の光が入ってくる。より多くの星を1枚の写真に写す努力が払われたが、1930年、ドイツ、ハンブルク天文台のB・V・シュミットは、反射鏡の前面に特殊な補正レンズを入れることによって6度角平方を同時に写せるシュミット・カメラを完成した。
ハンブルク郊外ベンゲドルフにあるハンブルク天文台は1914年創設で、各種望遠鏡のほかに80センチメートルのシュミット・カメラを備えている。ドイツのカール・シュワルツシルト天文台には万能型の口径200センチメートル望遠鏡があり、補正レンズを使うと世界最大のシュミット・カメラとなる。
望遠鏡の口径の拡大は引き続き行われた。1917年アメリカのウィルソン山天文台に口径257センチメートル反射望遠鏡がつくられた。これはレンズを使った望遠鏡と異なり、ガラス面にアルミ蒸着したものである。この天文台ではハッブルが、遠い銀河ほど高速で飛び去っているという「ハッブルの法則」を発見した。1948年にはヘールの努力とカーネギー財団の寄付によりパロマ山天文台に508センチメートル望遠鏡がつくられた(ウィルソン山天文台とパロマ山天文台をあわせてヘール天文台とよんでいた。現在は別組織)。旧ソ連では1976年にクリミア天文台に近いゼレンチュクスカヤに口径600センチメートル反射望遠鏡が完成している。この望遠鏡は赤道儀式望遠鏡と異なり、経緯儀式望遠鏡である。
日本では東京大学附属東京天文台、京都大学理学部附属花山天文台、緯度観測所があったが、1988年(昭和63)に東京天文台は東京大学から離れ、緯度観測所とともに、文部省直轄の国立天文台となった。
国立天文台は1878年(明治11)に創設され、東京大学に属し、理科大学観象台とよんでいたが、1888年麻布(あざぶ)に移り、東京天文台とよばれるようになった。大正時代、東京市街の明かりを避けて三鷹(みたか)市に移った。1988年に国立大学共同利用機関の国立天文台、2004年(平成16)に大学共同機関法人自然科学機構・国立天文台となった。時刻の測定から銀河の観測まで広範囲な天文学の観測研究を行っている。出張所として1949年(昭和24)設立の乗鞍(のりくら)コロナ観測所、1960年の岡山天体物理観測所、1962年の堂平(どうだいら)観測所、1969年の野辺山太陽電波観測所(2015年閉所)、1974年の木曽(きそ)観測所のほか、1981年には野辺山宇宙電波観測所が完成、ミリ波では世界最大の45メートル望遠鏡を備えている。これらの諸施設は木曽観測所のみ東京大学の施設として残り、あとは国立天文台に移管した。なお、堂平観測所は観測環境の悪化等の理由で2000年(平成12)3月閉所し、また、乗鞍コロナ観測所も2010年太陽観測衛星「ひので」に研究を託し、閉鎖した。
京都大学には花山天文台と飛騨(ひだ)天文台がある。飛騨天文台には65センチメートル屈折望遠鏡、60センチメートル反射望遠鏡、世界最新の性能を備えたドームレス太陽望遠鏡がある。
緯度観測所は岩手県奥州市にあり、1988年に国立天文台水沢観測センターとなる。1899年に全世界にまたがる国際緯度観測事業のために設立され、世界6か所の緯度観測のデータを集めて整理、計算するセンターであった。VLBI(超長基線電波干渉計)による銀河の地図を作成するVERA計画を推進するため、1999年にVERA観測所が設置された。2006年に緯度観測所とVERA観測所が統合され、2009年から水沢VLBI観測所となっている。
[磯部琇三・宮内良子 2015年5月19日]
天文台の機能は時とともに多様になってきている。位置観測においては、大昔の渾天儀や四分儀を別にしても、子午儀や子午環による観測から一歩進もうとしている。人工衛星(「ヒッパルコス」)で全天20万個の星の位置を0.001秒の精度で求めている。また超長基線電波干渉計を使って1センチメートル以下の地球の動きを明らかにした。
恒星や銀河の性質を明らかにするために、可視光ばかりでなく電波からγ線まで広い波長域での観測が行われている。可視域の観測装置はより大きくなり、観測体制も国際的になってきた。1968年設立のキットピーク国立天文台は口径400センチメートル反射望遠鏡を備えたアメリカの大学の共同利用のための天文台で、1984年にはアメリカ国立光学天文台という、より大きな組織に発展している。南アメリカのチリには同じくアメリカの大学の共同利用のセロ・トロロ天文台、ヨーロッパ各国が設立したヨーロッパ南天天文台(ESO)のラシヤ天文台、カーネギー財団の設立したラス・カンパナス天文台があり、それぞれ400センチメートル、360センチメートル、254センチメートルの反射望遠鏡をもっている。ハワイのマウナ・ケア山にはハワイ大学の223センチメートル、イギリスの390センチメートル赤外線望遠鏡、アメリカ航空宇宙局の320センチメートル赤外線望遠鏡、フランス・カナダ・ハワイ共同運用の358センチメートル反射望遠鏡がある。スペイン領カナリア諸島のラ・パルマでは1983年からイギリスの254センチメートル反射望遠鏡、1987年から420センチメートル経緯儀式反射望遠鏡が稼動している。また、スペインのカラ・アルトにはドイツのマックス・プランク研究所の350センチメートル反射望遠鏡がある。1990年以降、大口径の望遠鏡をもつ天文台が増えた。
これらの天文台はいずれも、大口径望遠鏡の機能を有効に果たせるように、気象条件がよく、しかも大気のゆらぎによって星像があまり大きくならない高山の上に建設されている。可視光のより質のよい光を得るために、1990年にはスペースシャトルで口径240センチメートル反射望遠鏡スペーステレスコープ(ハッブル宇宙望遠鏡)が打ち上げられ、高精度の画像が次々と得られている。
1990年代になると、地上ではより良い観測条件を求めて、ハワイのマウナ・ケア山に36枚の分割鏡からなる口径10メートルのケック望遠鏡第1、2号機の2台の望遠鏡、口径8.2メートルの一枚鏡のすばる望遠鏡、口径8.1メートルの一枚鏡ジェミニ北望遠鏡が次々に完成した。南半球では南米のチリに口径8.2メートルの一枚鏡VLT(Very Large Telescope、超大型望遠鏡)が4台、口径8.1メートルのジェミニ南が2001年までに観測を始めている。2007年には、カナリア諸島のラ・パルマに36枚分割鏡口径10.4メートルのGTC(Gran Telescopio Canarias、カナリア大望遠鏡)が完成した。2000年代には、口径10メートルクラスの大型光学赤外線望遠鏡は天体の構造をより詳しく調べるために使われ、中小望遠鏡は、より多くのデータを着実に増やすための掃天観測や天体の長期にわたる時間変化の観測などに使用されるようになり、役割分担と特化が進んでいる。
[磯部琇三・宮内良子 2015年5月19日]
『磯部琇三著『世界の天文台』(1983・河出書房新社)』▽『アイザック・アシモフ著、小原隆博訳『天文学の歴史』(1990・福武書店)』▽『吉田正太郎著『望遠鏡発達史』上下(1994・誠文堂新光社)』▽『東海林郁三著『忘れられた天文台』(1995・近代文芸社)』▽『沼沢茂美著『SUBARU――すばるが見た大宇宙』(1999・人類文化社、桜桃書房発売)』▽『古在由秀著『天文台へ行こう』(2005・岩波書店)』▽『国立天文台編『ビジュアル天文学 宇宙へのまなざし――すばる望遠鏡天体画像集』(2009・丸善出版)』
望遠鏡はじめ諸種の観測器械を使って,天体や宇宙の観測をする施設をいう。観測のほかに,測定・解析用機器や資料,文献を備えて,天文学の諸種の研究を行う天文台も多い。
科学史に示されているように,天文学はもっとも長い歴史をもつ科学であり,また国家が国民に暦や時を授けるという統治上の必要に用いられた。そこで天体観測を国家の権威のもとに行うための天文台が設けられた歴史もまた古い。エジプト暦が採用されたのは前4200年ころといわれ,古代エジプトではそれ以前から詳しい天体観測がなされていたことになる。ナイル川の流域にあったデンデラ,メンフィス,ヘリオポリスの3都市には,いずれも天文台が設けられていたという。中東地域のメソポタミアでも,前十数世紀から天体観測がなされ,有名なバベルの塔は,その頂上で神官たちが天体を観測した天文台であったという説もある。前6世紀以降の約800年間は,ギリシアで科学的な宇宙論が花を開いた時期であるが,当時のギリシアの天文学者の中で,天体観測の第一人者であったヒッパルコスは,エーゲ海上のロドス島に天文台を作って観測に励んだということである。前150年ころ,彼は長年の恒星位置の観測から,歳差運動を発見している。しかし,3世紀ころからヨーロッパは混乱が続き,科学が本格的に復活したのは約1000年以上を経たルネサンス期以降であった。天才レオナルド・ダ・ビンチがまだ若かった1471年,ドイツで最初のニュルンベルク天文台がレギオモンタヌスによって建設され,実証精神を重視して盛んに観測が行われるようになった。当時の大観測家T.ブラーエが,デンマーク近海の島にウラニエンボリ天文台を築いたのは1576年のことであり,これこそ近世最初の本格的な天文台といえるものである。彼は六分儀や四分儀などの器械を作ってここに置き,精密な天文観測を行ってその記録を残した。一時彼の助手をつとめたJ.ケプラーは,1609-18年,この記録を整理して,有名な惑星運動の3法則を導いたのである。
一方,中国でも,伝説上ではあるが,尭帝の時代に,恒星の南中を観測して1年の長さをきめていたとされている。下って前104年,前漢の時代に太初暦という暦が制定されたころ,落下閎(こう)という天文学者が,以後長く中国の伝統的天文観測具となった渾天儀を使って観測したという。その後,隋,唐,宋の各時代にも,この渾天儀が改良製作され,1260年になって元のフビライが皇位に就き,北京に天文台を建設したときに作られたものは今でも残っている。清朝の康煕13年(1674),ヨーロッパからの宣教師F.フェルビーストは,諸種の新しい観測器械を増設し,この北京天文台を拡充した。
イスラム系の天文学が栄えた中央アジアでは,1258年,イル・ハーン国の創設者フレグが,現在イランの北西境にあるマラーガMarāghaに巨大な天文台を作り,ナシール・アッディーン・アットゥーシーを台長とした。その後,1428年にはティムール朝の名君ウルグ・ベクがサマルカンドに天文台を作り,地下深く斜めに掘り下げた観測坑が今なお残されている。大規模な天文台を作って観測を行うイスラム天文学の影響はインドにも及び,ジャイプールの藩王ジャイ・シン2世は,1718-34年にわたって,領内数ヵ所に大きな天文台を建設した。ジャイプールやデリーには,石造の巨大な観測器群を配置した天文台の遺構が当時の姿をとどめている。
朝鮮では釜山の北の慶州に,直径が基礎部で約5m,高さ10mあまりの塔の形に石を積み上げた瞻星台(せんせいだい)が残っているが,これは新羅の善徳女王の代に建立された天文台だといわれる。
さて日本では,《日本書紀》の天武天皇3年(674)の条項に,占星台を作るという記述がある。そのとき以来,国家の名で暦が編集され天象観測も実施されていたことが残された暦や多くの観測記録から推定されるが,国家天文台の状況をしるした文献は見つかっていない。下って江戸時代,貞享暦を作った渋川春海が幕府から天文方を委嘱され,元禄年間の1689年,本所に天文台用地を与えられた。その後幕府の天文台は1703年に駿河台へ移り,46年には神田佐久間町に,65年には牛込袋町に,82年には浅草片町裏へと何度も移設されている。また幕府は1842年には九段坂上にもう一つの天文台を作った。これらは維新直後の明治2年(1869),新政府によって廃止され,残存器械類は,のちに東京大学へ統合される開成学校へ引き渡されて幕を閉じた。
現代まで仕事が続けられている天文台でもっとも古いのは,デンマークのコペンハーゲン大学天文台で1637年の創設である。続いて67年創設のパリ天文台と75年創設のグリニジ天文台が,ともに300年をこえる長い歴史をもっている。パリとグリニジの両天文台は,天体力学の研究や航海に必要な天体位置の精密観測を目的として,子午儀,子午環,天頂儀などが備えられ,天体観測と並んで天体暦の編集発行が行われてきた。のちにできたアメリカのワシントン海軍天文台(1832創設),ソ連のプルコボ天文台(1839創設),日本の東京天文台(1878創設)なども,創設当時はいずれも位置天文学の観測が中心であった。上記の諸天文台は,各国の国立の天文台としての役割を果たしてきた点でも共通している。なお,日本の水沢はじめ,北緯39°8′の緯度上に分布する世界数ヵ所に設けられた緯度観測所も,経緯度決定を行う位置天文学の天文台である。
18世紀後半から19世紀になると,連星や二重星および恒星一般の距離や分布などを対象にした恒星天文学の観測が盛んになり,例えば南アフリカのケープ天文台(現在は南アフリカ天文台に統合)は,1820年にこの目的で作られたものである。次いで19世紀から20世紀にかけては,太陽,恒星,星団,銀河など,諸天体の物理的性状を明らかにすることを目的とした天体物理学の観測が主流となり,そのための大口径望遠鏡や,測光・分光諸装置を備えた天文台があちこちに建設された。現在の大多数の天文台は,このような天体物理天文台である。また上に述べた歴史の古い天文台でも,位置天文学のほかに,天体物理学の観測が盛んに行われるようになった。
さらに20世紀の後半に入ってからは,電波天文学の発展に伴って,電波望遠鏡の建造が各地で進められ,電波観測を主とするいわゆる電波天文台もいくつか建設されている。1970年代以降には,人工天体に望遠鏡や測定器を積み込んだ空飛ぶ天文台orbiting observatoryが実現し,とくに地上からは観測できない紫外線やX線および赤外線の波長域での観測に大きい成果をあげるようになった。80年代の半ばからはいよいよスペースシャトルが就航し,宇宙空間での天体観測が本格化する。
さて宇宙空間天文台の時代がきても,地上の天文台がその存在価値を失うことはない。というのは,宇宙空間天文台は利用者が限られ,積み込む望遠鏡の大きさもある程度制限されるからである。もちろん地上の観測所のほうは,地球大気による観測可能波長域の制限と,気象条件による観測条件の不完全さを免れない。波長域制限はしかたがないが,気象条件のほうは少しでもよい場所を選ぶことで,それによる影響を小さく抑えることができる。この観点から,最近はハワイ島や,チリのアンデス山中といった観測適地に,世界各国の天文台が集まる傾向が見られるようになった。また宇宙空間へはもち込めない大型望遠鏡の建設計画,すなわち現在最大のソ連の6m望遠鏡をこえる7.5m程度のものや,多くの鏡を使用して合成口径が10mないし25mにも達する新方式の望遠鏡を作る案が,数ヵ所で検討されている。
パリやグリニジの天文台が17世紀に創設されて以来,18~19世紀の天文学はヨーロッパの天文台を中心に発展した。20世紀に入ってからは,アメリカのほうが多くの大望遠鏡を建造したが,1976年にはソ連に6mの反射望遠鏡が作られ,可動型では最大の口径100mの電波望遠鏡が1971年西ドイツに建設された。ヨーロッパの他の諸天文台もそれぞれ古い伝統の中へ新しい設備をとり入れて活躍している。しかし一般的に,中部ヨーロッパ,北ヨーロッパは天気に恵まれないので,新しい大型光学望遠鏡は,天気のよい南ヨーロッパや南半球各地に建設されることが多くなった。
1667年ルイ14世の命令で建設されたパリ天文台の初代台長は,月の自転に関する法則や土星の環の空隙(くうげき)にその名を残しているG.D.カッシニである。71年,南アメリカのフランス領ギアナとパリで火星の同時観測を行い,その視差から火星までの距離を計算し,これに基づいて太陽までの距離を初めて求めたのもパリ天文台のりっぱな業績である。75年,木星の衛星の食の観測から光速度を求めたO.C.レーマーの有名な仕事もここで行われた。18世紀に入ると,パリ天文台の観測家たち,例えばN.L.deラカイユは南アフリカへ赴いて南天星の組織的研究を行い,C.メシエは星雲,星団,銀河103個を含むメシエ星表を発表して,恒星・銀河天文学の歴史を開いている。19世紀後半の1876年には,パリ郊外にムードン天体物理天文台を建設し,口径1mの反射,83cmの屈折両望遠鏡や太陽観測装置を備えて新しい活動を開始した。また同じくパリ天文台に付属するナンセー電波観測所には,幅300m,高さ35mの半固定式アンテナや10mと3mのパラボラ18台からなる干渉計があって,フランスの電波観測の中心となっている。
その後1930年,スペイン国境のピレネー山脈中のピク・デュ・ミディ(標高2860m)に,B.F.リヨが設計したコロナグラフを置く天文台が作られ,40年代には60cm屈折鏡(月や惑星の観測に活躍),次いで60年代には107cm,80年代には2mの反射鏡も増設された。一方,1950年以来,南フランスのプロバンス地方のサン・ミシェル村に,オート・プロバンス天文台が建設され,193cm,152cm,120cmほかの反射望遠鏡,60cmシュミット望遠鏡などを備え,ピク・デュ・ミディとともにフランスの天体物理学研究の拠点になっている。さらにフランスはドイツ,スペインと共同で,スペインのピコベレタにミリ波電波天文学研究所(IRAM)を建設中である。
1675年チャールズ2世は,当時のイギリスが世界を制するために不可欠であった航海術の発展を重視し,船位確認の基礎になる恒星位置の精密な決定を主要研究テーマとして,ロンドン郊外にグリニジ天文台を建設した。初代台長のJ.フラムスティードに次いで2代台長をつとめたE.ハリーは,1705年ハリーすい星が周期すい星であることを見つけ,また18年にはシリウス,アークトゥルスなどの位置とT.ブラーエの観測値との差が,恒星の固有運動によるものであることをつきとめた。3代台長J.ブラッドリーも,光行差や章動の発見者として著名である。グリニジ天文台の子午環を通る子午線が経度の基準になっていることからも,ここが位置天文学の大本山であったことがうかがえる。しかし19世紀半ばからは,太陽観測をはじめとする物理的観測も行われるようになった。1950年ころからは,ロンドンの南のサセックス州ハーストモンソー城に順次施設を移動し,グリニジは海事博物館として残されている。最近はグリニジ天文台が中心になって,アフリカ沖にあるスペイン領カナリア諸島中のラ・パルマ島にイギリスの光学天文台を建設中で,63年ハーストモンソー城内にいったん据え付けられた2.5mの反射望遠鏡は,83年ここへ移設された。さらに完成後ここに置かれる4.2mの大望遠鏡が現在建造中である。
イギリスのもう一つの主要天文台として,スコットランドのエジンバラ天文台がある。ここが運営する望遠鏡はすべて海外にあり,まず1973年にはオーストラリアのサイディング・スプリングに補正板口径1.2mのシュミット望遠鏡を,次いで80年ハワイのマウナ・ケア山に3mの赤外線望遠鏡を設置して成果をあげている。さらにマウナ・ケア山にはミリ波の電波望遠鏡の建設を開始した。
上記以外に,オーストラリアのサイディング・スプリングには,イギリス,オーストラリア連合の3.9m反射鏡が1974年に設置された。イギリスの電波天文台としては,マンチェスター大学のジョドレルバンク観測所が口径76mのパラボラアンテナをもち,またケンブリッジ大学のムラード電波天文台には435m×25mの放物面筒アンテナや大規模な電波干渉計がある。
1874年創設のポツダム天文台と,1913年創設のベルリン・バーベルスベルク天文台は,ともにドイツの中心的天文台であったが,第2次世界大戦で破壊され,戦後は東ドイツに編入された。西ドイツでは14年創立のハンブルク天文台が1m反射望遠鏡(1910建設)と80cmシュミット望遠鏡(1955完成)を中心に観測研究を続けてきた。ゲッティンゲン大学天文台(1751創設),ボン大学天文台(1845創設),ハイデルベルク天文台(1895創設)なども,太陽系や恒星・銀河天文学および天体物理学上で成果をあげた歴史的天文台である。現在のドイツでもっとも充実した設備を誇るのは,マックス・プランク研究所天文台で,ボン郊外のエフェルスベルクには,口径100mの大電波望遠鏡,スペインのカラル・アルト山には1.2m,2.2mの反射望遠鏡を設置して活動している。カラル・アルト山には,最近ハンブルクの80cmシュミット望遠鏡を移設し,また3.5mの反射望遠鏡の建設を計画中である。なお,東ドイツでは1960年,イェーナ近郊にカール・シュワルツシルト天文台を創設し,口径134cmという世界最大のシュミット望遠鏡を設置した。この望遠鏡は補正板をはずすと,口径2mの反射望遠鏡としても使うことができる。
イタリアでもっとも活動的なのはパドバ大学に所属するアシアゴ天文台で,1.82mと1.2mの反射望遠鏡および67cmのシュミット望遠鏡がある。フィレンツェ郊外のアルチェトリ天文台と,スイスのチューリヒ天文台はともに太陽観測の長い歴史をもっている。オランダのライデン天文台は天体物理学や銀河系の構造などの分野での観測と理論に,輝かしい成果を収めてきた。また水素原子の21cm電波輝線を発見し,同天文台所属の直径25mのパラボラアンテナを使って,銀河系全体の水素原子の分布が渦巻模様をもっていることを初めて明らかにしたユトレヒト天文台やカプタイン記念研究所も,天体物理学のうえでの貢献が大きい。
スウェーデンではウプサラ天文台の創設が1739年と古く,クビスタベルク支所には1mシュミット望遠鏡がある。ルント天文台,ストックホルム天文台とともに,天体物理学や銀河天文学の研究に業績をあげてきた。チェコスロバキアのオンドレーヨフ天文台には,1967年に口径2mの反射望遠鏡が完成した。ヨーロッパ南天天文台(略称ESO)は,ドイツ,フランス,オランダ,スウェーデン,ベルギー,デンマーク,イタリアの7ヵ国からなる連合組織で,本部はドイツのミュンヘン郊外のガルヒンクにある。天文台は南アメリカのチリのラ・シヤにあり,3.6m,1.5m,1mの3反射望遠鏡と1mのシュミット望遠鏡があり,目覚ましい活動を続けている。
ロシアの天文台の歴史はかなり古く,ニコライ1世治下の1839年にペテルブルグにプルコボ天文台が創設された。初代台長は,星の年周視差の最初の測定に成功したF.G.W.ストルーベである。旧ソ連で活動の主流をなしていたのは,2.6m,1.25m,1.2mの3反射望遠鏡をもつクリミア天文台,2.6mの反射と1mのシュミット望遠鏡をもつビュラカン天文台および1976年に世界最大の6m反射望遠鏡を備えて開設されたカフカス山脈にあるゼレンチュークスカヤの国立特別天体物理天文台である。ゼレンチュークスカヤには最近直径600mの特殊固定電波望遠鏡も建設された。なお,モスクワのレーベデフ研究所には直径22mのパラボラアンテナ,クリミア天文台には直径31mの固定パラボラがあって,電波観測が行われている。
アメリカでもっとも古い天文台は,東海岸のハーバード天文台とワシントンにある海軍天文台で,ともに1832年の創設である。しかし大望遠鏡群は西部に集まっており,パロマー山天文台(1928年創設,現在はウィルソン山天文台を含めてヘール天文台という)の5mと2.5mの反射,1.2mのシュミット,キット・ピーク天文台(1960年ころ創設)の3.8mと2.1mの反射,リック天文台(1874創設)の3m,マクドナルド天文台(1939創設)の2.7mと2.1mの反射,それにホプキンズ山天文台(1979創設)の有効口径4.5m(1.7m鏡6個の複合系)反射望遠鏡などが,晴天の多い乾燥した西部の天候に恵まれて観測の実績をあげている。
大望遠鏡の国際的団地として,1970年以降急速な発展を見たのが,ハワイ島マウナ・ケア山の標高4200mの山頂である。当初ハワイ大学の2.2mと二つの小望遠鏡が置かれただけだったのが,79年にはNASA(ナサ)(アメリカ航空宇宙局)の3m赤外線望遠鏡とカナダ,フランス,ハワイ大学連合の3.6m反射望遠鏡,80年にはイギリスの3.8m赤外線望遠鏡が設置された。80年代の後半にはさらに,カリフォルニア工科大学の10mサブミリ波用,イギリス,オランダ連合の15mミリ波用,カリフォルニア大学の10m可視赤外線用,そして90年代にはアメリカ国立電波天文台の25mミリ波用の各望遠鏡の建設が予定されている。
以上のほかの著名なアメリカの天文台としては,惑星観測の歴史を誇るローエル天文台(1894創設),世界最大の口径1mの屈折望遠鏡(1897完成)をもつヤーキス天文台,このヤーキス天文台の台長であったG.E.ヘールが1904年初めて西部に創設したウィルソン山天文台(2.5m反射が主要望遠鏡)などを欠かすことはできない。また太陽観測ではクライマックス・コロナ観測所(コロラド山中),サクラメントピーク観測所(ニューメキシコ),ハレアカラ観測所(ハワイ諸島マウイ島),ビッグベア天文台(カリフォルニア)などがある。アメリカには電波天文台も数が多い。まず国立電波天文台がウェスト・バージニア州のグリーンバンクにあり,91mのパラボラアンテナが設置されている。プエルト・リコのアレシボ電離層観測所には,固定式300mのアンテナがある。最近ではニューメキシコ州のソコロに,25mのアンテナ27台をY字形に配置したVLA(超大型多素子電波干渉計)が建設された。
カナダでは首都オタワのドミニオン天文台(1902創設),太平洋岸のビクトリアにあるドミニオン天体物理天文台(1918創設),トロント大学所属のディビド・ダンラップ天文台などの光学天文台および直径46mのパラボラアンテナをもつアルゴンキンパーク電波天文台があげられる。また,メキシコには,65cmシュミット望遠鏡(1949完成)が主力のトナンチントラ天文台がある。
南アメリカのチリのアンデス山中には,すでに述べたヨーロッパ南天天文台が1964年ラ・シヤに創設されたほか,アメリカ連合天文台が1962年セロ・トロロに,またカーネギー研究所所属のラス・カンパナス天文台が1971年に設置された。前者には4m,1.5m,1mの反射望遠鏡と60cmのシュミット望遠鏡,後者には2.5mと1mの反射望遠鏡があって,いずれも活躍している。
アルゼンチンではコルドバ天文台,ラ・プラタ天文台がそれぞれ1871年と83年に創設された歴史をもち,ベネズエラのメリダには1mのシュミット望遠鏡をもつルラーノ・デル・ハト天文台がある。
オーストラリアには,既述のようにサイディング・スプリング天文台にイギリス,オーストラリア連合の3.9m反射望遠鏡と1.2mのイギリスのシュミット望遠鏡があって大きい成果をあげている。オーストラリア固有のものとしてはキャンベラ付近に1924年創設のストロムロ山天文台があり,1.9mの反射望遠鏡をもっている。この国はまた電波天文学が盛んで,シドニーの国立理工学研究所所属のパークス観測所には直径64mのパラボラアンテナ,カルグーラ観測所には13mアンテナ96基からなる太陽電波観測用の電波干渉計がある。
アフリカでもっとも歴史が古いのは,1820年ケープタウン市外に創設されたケープ天文台で,恒星の位置観測や二重星の観測に成果が残されている。1972年にはヨハネスバーグ天文台を合併しサザランドに移って南アフリカ天文台となった。1948年に1.9mの反射鏡ができ上がってイギリスから南アフリカのプレトリアへ移転したラドクリフ天文台は74年閉鎖され,1.9m望遠鏡は南アフリカ天文台へ移設された。ブルームフォンテインにはアメリカのハーバード大学に所属するボイデン観測所が1.5m反射鏡と81cmのシュミット望遠鏡を設置している。なお南半球ではないが,エジプトのカイロ近郊には1868年創設のヘルワン天文台があり,1963年にはスエズに近いコッタシアに1.9mの反射望遠鏡を新設した。
西ドイツのマックス・プランク研究所には,ナミビアのギアムズバーグに2.2mと3.5mの反射望遠鏡を備えた天文台を建設する計画がある。
中国,朝鮮,インドの古い天文台についてはすでに述べたとおりである。中国の現況としては北京天文台,南京の紫金山天文台,昆明の雲南天文台などがあり,北京天文台では2m反射望遠鏡の建設計画がある。インドではデカン高原の南東端にあるカバルール天文台に建設中の234cm反射望遠鏡の完成が近い。また高原南西側のウータカモンド電波天文学センターには幅530m,高さ30mのアンテナがあり,宇宙電波源の月による掩蔽(えんぺい)を中心とした観測を行っている。
イラクでは現在3.5mの反射望遠鏡と,それを備える国立天文台を建設中である。
東京天文台は東京大学付置研究所の一つで,国内各地に観測所をもつ日本での代表的天文台である。1878年,東京大学理学部の観象台として本郷構内に発足した。88年には旧内務省および海軍省の天文関係の業務を統合して,麻布飯倉の地に東京天文台が設立され,1924年には三鷹に移転して現在に至っている。第2次大戦後,乗鞍コロナ観測所が49年,岡山天体物理観測所が60年,堂平観測所が62年,野辺山太陽電波観測所が69年,木曾観測所が74年,さらに野辺山宇宙電波観測所が78年に相次いで付属施設として建設された。岡山の188cm反射望遠鏡,木曾の105cmシュミット望遠鏡および野辺山の45m宇宙電波望遠鏡などは全国の共同利用にも供されている。これら各施設および三鷹では,位置天文学,天体物理学,電波天文学などの各分野での研究,観測のほか,編暦や保時などの国立天文台としての業務が行われている。88年後述の水沢の緯度観測所などと統合され,国立天文台(文部省,のち文部科学省の管轄)となる。2004年法人化して大学共同利用機関法人の自然科学研究機構国立天文台となった。
1899年岩手県水沢市(現,奥州市)に設置された緯度観測所は,世界各国が協同して緯度変化を研究するのが創設の目的であった。同一緯度39°8′上の世界6ヵ所に作られた同種観測所のうち,休まずに観測を続けてきたのは水沢だけである。1962年には,上記同緯度上の6ヵ所を含むいくつかの協力天文台での緯度および時刻観測から,精密な極運動を決定する目的で国際極運動観測事業が再編成され,その中央局をつとめている。京都大学では,花山天文台が市内山科に,飛驒天文台が岐阜県に,上松赤外線観測所が長野県に,それぞれ1929年,68年,73年に設置された。飛驒天文台の太陽望遠鏡,上松観測所の1m赤外線望遠鏡が成果をあげている。
そのほか,名古屋大学空電研究所(豊川市)には太陽電波干渉計があり,宇宙科学研究所(現,独立行政法人の宇宙航空研究開発機構宇宙科学研究本部)の鹿児島観測所,海上保安庁の水路部(現,海洋情報部)の諸観測所,国土地理院の鹿野山測地観測所(千葉県)および東京上野の国立科学博物館などにも,中小望遠鏡が設置されて,諸種の観測が行われている。
執筆者:高瀬 文志郎
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
時刻を正確に決定し,正しい暦を編成することは,人間が生活し,生産活動を営む上で大切な基盤である。時刻を決定するためには,太陽の位置を観測する必要がある。暦を編成するためには,太陽の出没時刻や方角の観測,太陽や月,天体,星座の観測が必要である。これらの観測を古代以来,担ってきたのが天文台である。その後,光学望遠鏡,電波望遠鏡等の観測機器の発達により,天体観測,さらには宇宙論に関わる観測等,天文学の発展に貢献してきた。日本でも古代から天体観測施設は存在したが,近代的な天文台の最初は1888年(明治21)に帝国大学(現,東京大学)に設置された東京天文台である。その後,大正時代に三鷹市に移転した。研究機関としての東京天文台は,1988年(昭和63)に東京大学から分離し,大学共同利用機関の国立天文台となり,今日に至っている。大学の理学部の多くは天文台を有しているほか,一般向けに公開されている公立,私立の天文台も多い。
著者: 小林信一
出典 平凡社「大学事典」大学事典について 情報
出典 株式会社平凡社百科事典マイペディアについて 情報
〘 名詞 〙 年の暮れに、その年の仕事を終えること。また、その日。《 季語・冬 》[初出の実例]「けふは大晦日(つごもり)一年中の仕事納(オサ)め」(出典:浄瑠璃・新版歌祭文(お染久松)(1780)油...
12/17 日本大百科全書(ニッポニカ)を更新
11/21 日本大百科全書(ニッポニカ)を更新
10/29 小学館の図鑑NEO[新版]動物を追加
10/22 デジタル大辞泉を更新
10/22 デジタル大辞泉プラスを更新