改訂新版 世界大百科事典 「日曹コンツェルン」の意味・わかりやすい解説
日曹コンツェルン (にっそうコンツェルン)
昭和初期に台頭した新興コンツェルンの一つ。第1次世界大戦後の1920年に中野友礼(とものり)が日本曹達株式会社を設立し,みずからが京都帝大研究室で研究した電解法技術を採用して塩を原料に苛性ソーダ生産に着手したことに始まる。早くから副産物の塩素からさらし粉,塩酸を生産するとともに,電解技術を利用して金属ナトリウム製造など金属製錬部門にも進出したが,金輸出再禁止後のソーダ工業の活況に支えられて,34年ごろから急速に事業の多角化を展開した。アンモニア法ソーダ生産の九州曹達,苛性ソーダを原料とする日曹人絹パルプ,特殊鋼の米子製鋼などの子会社に加えて,原料資源の供給を確保するため日曹鉱業を設立するなど,電解法ソーダ工場を起点に短期間に有機的連関のもとにコンツェルンを形成していった。その際,資金調達に株式市場を活用したほか,日本興業銀行を中心とする借入金への依存が大きかった。しかし短期間の急成長は内部に矛盾を強めていった。鉱業部門が欠損続きのうえ,アンモニア法ソーダ生産の技術も失敗して,当初予定したコンツェルン内の有機的連関がうまく機能せず,戦時経済による原料の制約も加わり,40年ごろには経営が急速に悪化した。創設者中野が退陣,大和田悌二が社長に就任し,官僚と日本興業銀行の主導で整理統合が行われたが,コンツェルンは事実上解体していった。敗戦後,日本曹達は旧コンツェルンの関連部門を分離独立させ(日曹製鉱,日曹炭鉱,日曹化学工業など),自身は本来のソーダ生産会社に戻った。
執筆者:中村 青志
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報