1597年2月5日(慶長元年12月19日)に長崎で豊臣(とよとみ)秀吉の命令によって処刑されたカトリックの司祭、修道士、信徒。秀吉は1587年(天正15)に宣教師の国外追放を命じたが、イエズス会員は秀吉の感情を害さぬように慎重に行動したので、事態は穏便に経過していた。しかるに秀吉が呂宋(ルソン)国(フィリピン)に投降を勧告したことから、マニラからスペイン系の托鉢(たくはつ)修道会員が、総督の外交使節となって渡日するようになった。彼らはイエズス会員たちの憂慮をよそに、秀吉から公然滞在を許されていることを幸いとして京都、大坂、長崎などで布教活動を開始した。そのおり、1596年に土佐(高知県)の浦戸にスペイン船サン・フェリペ号が漂着し、同船の水先案内が積み荷を没収された腹いせに暴言を吐いたり、また当時来日していたイエズス会出身の日本司教マルティンスらのフランシスコ会員に対する反対運動があったりして、秀吉は明白な理由をあげることなく、突如、京坂(けいはん)のフランシスコ会員とイエズス会員、および日本人信徒らを捕縛し、長崎で処刑することを命じた。道中2名の信徒が加わり、また2名が殉教直前にイエズス会員となったので、西坂の丘で殉教したのは、フランシスコ会員がペドロ・バプチスタほか6名、日本人イエズス会修道士が3名、日本人信徒17名である。フランシスコ会員の1人はメキシコ生まれ、他の1人はインドのバサイン生まれであり、日本人のなかには尾張(おわり)(愛知県)出身の12歳の少年もいた。1861年(文久1)、ローマ法王ピオ9世は殉教したフランシスコ会員と日本人信徒を、翌年、イエズス会修道士3名を聖人に列する宣言をした。
[松田毅一]
『レオン・パジェス著、木村太郎訳『日本廿六聖人殉教記』(1931・岩波書店)』▽『パチェコ・ディエゴ著、菅田玲子訳『長崎への道』(1962・中央出版社)』
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