日本大百科全書(ニッポニカ) の解説
日本鉄鋼産業労働組合連合会
にほんてっこうさんぎょうろうどうくみあいれんごうかい
全国の鉄鋼産業関係労働組合の産業別連合体。略称鉄鋼労連。日本労働組合総連合会(連合)加盟組織。2003年(平成15)9月、連合加盟の全国造船重機械労働組合連合会、全日本金属産業労働組合協議会(IMF-JC)のみ加盟の非鉄連合と組織統合し、組合員25万人を擁する日本基幹産業労働組合(基幹労連)へと発展解消した。解散時の組合員数13万1230人。
鉄鋼労連は戦後日本の労働運動で、その時々に主導的役割を果たしてきた。1951年(昭和26)3月1日、前身である全国鉄鋼産業労働組合協議会(全鉄労協)が民主化運動によって再編成されるなかで、八幡(やはた)製鉄、富士製鉄、日本製鋼所、住友金属工業、神戸製鋼所、川崎製鉄の各労働組合による大手6社共闘の指導のもとに結成された。1952年日本労働組合総評議会(総評)に加盟し、1954年の尼崎(あまがさき)製鋼所・日鋼室蘭(むろらん)製作所企業整備反対闘争、1957年賃金闘争時の11波2か月にわたるスト、1959年の日本鋼管・富士製鉄の闘争などを指導してきた。しかし、1956年に始まる大規模な第二次「合理化」計画の実施のもとで、1959年賃金闘争の800円「一発回答」による敗北を転機に、しだいに右派勢力が主導権を握り、1966年に国際金属労連日本協議会(IMF-JC、1975年以降全日本金属産業労働組合協議会=金属労協)に加盟、賃上げを主とする経済闘争を重視する「労働組合主義」路線に運動を転換させた。1970年代後半の春闘では鉄鋼労連、電機労連などJC加盟労組が主導権をとるようになり、JC春闘といわれるようになったが、折からの長期不況で「賃上げミニマム論」や賃上げは生産性上昇の範囲内に収めるべきだという「経済整合性」論に基づく賃金闘争の推進が強調された。さらに1980年代になると賃上げ自粛論などが鉄鋼労連幹部によって唱えられた。
1980年代労働戦線統一の流れでは、鉄鋼労連をはじめとするJCグループがリーダーシップを発揮した。鉄鋼労連は、1982年12月発足の全日本民間労働組合協議会(全民労協)に総評からの第一陣として参加するなど民間先行の労働戦線統一に積極的であった。長らく総評に加盟してきたが、1987年11月発足の全日本民間労働組合連合会(民間「連合」)にも加盟し、1989年(平成1)総評の解散に伴い連合に参加した。バブル経済崩壊後の1990年代になると、春闘は毎年組織されるものの目にみえる成果があがらないことから、鉄鋼労連は1997年9月の定期大会で、1998年春闘から賃上げ交渉を2年に一度とする複数年協定方式の採用を決めた。
だが2003年9月、鉄鋼、造船など重厚長大産業における雇用削減などで組合員数を減らすなかで、産業構造が似ている組織と共同し基幹労連の結成に至った。
[大野喜実・川崎忠文・早川征一郎]