日立(市)(読み)ひたち

日本大百科全書(ニッポニカ) 「日立(市)」の意味・わかりやすい解説

日立(市)
ひたち

茨城県北東部にある市。1939年(昭和14)日立と助川(すけがわ)の2町が合併して市制施行。1955年(昭和30)多賀(たが)、久慈(くじ)の2町と日高、中里(なかざと)、坂本、東小沢(ひがしおざわ)の4村、1956年豊浦(とようら)町を編入。2004年(平成16)多賀郡十王町(じゅうおうまち)を編入。日立の名は徳川光圀(みつくに)が朝日の立ち上る景勝を領内随一とたたえたことに由来する。多賀山地の高原状の山地と狭長な台地および急崖(きゅうがい)をなす海岸よりなる。冬の沿岸部は温暖な気候をもつ。JR常磐(じょうばん)線、常磐自動車道、国道6号、245号、293号、349号、461号が通じる。なお、日立電鉄(常北太田―鮎川(あゆかわ)間)は2005年3月末をもって廃線となり、代替バスが運行されている。中世佐竹氏の支配を経て、近世は徳川水戸藩領となった。陸奥(むつ)国への関門として交通上の要所であったが、幕末には海防上の要地とされ、助川に城堡(じょうほ)が築かれた。明治・大正時代は小規模な農漁村地帯であったが、1905年(明治38)に久原房之助(くはらふさのすけ)が日立鉱山を開き、宮田川沿いに採鉱、選鉱、製錬、電錬の事業所を置いてから鉱山町が発達した。銅、金、銀、硫酸を生産して鉱工業都市の基礎となった。大戦のたびに発展して1955年ごろまでが最盛期であった。1976年より銅の製錬をやめ、名物の溶鉱炉の大煙突の煙も消えたが、電錬工場での銅の生産は続いている。鉱山技師の小平浪平(おだいらなみへい)は鉱山機械修理工場を1920年(大正9)独立させて日立製作所を創立した。電線、発電機、モーター、家庭用電気製品、絶縁物などを生産する大工場群がほぼ常磐線沿いに発展している。これらの非鉄金属と電気機械、一般機械の出荷額は全市の工業出荷額約1兆4942億円の90%(1995)を占め、茨城県屈指の工業都市となっている。また、十王地区では常磐炭田南端の炭鉱が水戸藩の大砲製造用の石炭を産して以来、主産業となったが、1973年閉山。炭鉱閉山後の振興策で伊師(いし)(工業)団地(1989年完成)などが造成され、日立グループ関連企業などが進出し、宅地も造成された。ほかにセメント工業も盛大。山地では肉牛肥育と林業が行われ、台地はミカン栽培の北限地。農業もキュウリ、花卉(かき)などのハウス栽培など都市近郊農業が行われる。1967年開港した日立港(現在は重要港湾茨城港の日立港区)は、国際貿易港に指定され、木材、石油類の輸入、電機製品の輸出など、北関東最大の海港となっている。JR日立駅前は再開発され、科学・文化・福祉などの総合施設シビックセンターや新都市広場が整備された(1990)。駅中央口から伸びる平和通りの桜並木は有名。海岸は景勝地で河原子(かわらご)、久慈浜(くじはま)などの海水浴場がある。日立鉱山跡地の日鉱(にっこう)記念館に鉱山の歴史が展示されている。かみね公園は動物園や郷土博物館、市民プールなどがある憩いの場である。公園入口に拝殿をもつ神峰(かみね)神社には国指定重要無形民俗文化財およびユネスコの無形文化遺産である日立風流物(ふりゅうもの)とその山車(だし)1基(国指定重要有形民俗文化財)が伝わっている。いぶき山イブキ樹叢(じゅそう)は国指定天然記念物。北部の伊師浜海岸の碁石浦は岐阜県長良(ながら)川の鵜飼(うかい)で使われるウミウの捕獲地として知られ、国民宿舎もある。面積225.86平方キロメートル、人口17万4508(2020)。

[櫻井明俊]

〔東日本大震災〕2011年(平成23)の東日本大震災では震度6強を記録、死者13人、住家全壊436棟・半壊3989棟を数えた(消防庁災害対策本部「平成23年東北地方太平洋沖地震(東日本大震災)について(第159報)」平成31年3月8日)。

[編集部 2019年10月18日]

『『日立市史』(1959・日立市)』


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