日野強(読み)ヒノ ツトム

20世紀日本人名事典 「日野強」の解説

日野 強
ヒノ ツトム

明治・大正期の新彊伊犂探検家,陸軍大佐



生年
慶応1年12月7日(1866年)

没年
大正9(1920)年12月23日

出生地
伊予国小松(愛媛県)

学歴〔年〕
愛媛師範卒,陸士(旧11期)卒

経歴
日清戦争に歩兵中尉として従軍。明治35年参謀本部出仕となり、日露戦争では第1軍司令部付となる。39年中国、インドに派遣され、1年4ケ月をかけて伊犂(中国・新疆ウイグル自治区)からさらにヒマラヤ山脈を越えてインドに出るという、邦人初の探検を達成した。42年中佐。大正元年再び中国に派遣され、李烈釣らの革命派を援助した後、李の日本への亡命を援けた。2年帰国後、大佐となって予備役に編入され、中国で実業に従事した後、大本教の幹部となった。著書に「伊犂紀行」(全2巻)がある。

出典 日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」(2004年刊)20世紀日本人名事典について 情報

改訂新版 世界大百科事典 「日野強」の意味・わかりやすい解説

日野強 (ひのつとむ)
生没年:1865-1920(慶応1-大正9)

陸軍軍人。中央アジア踏査で知られる。愛媛県生れ。日清・日露戦争に従軍,1906年7月参謀本部付として新疆視察の内命を受け,同年12月,随員の上原多市とともに蘭州を出発,ハミ哈密),トゥルファン(吐魯番),ウルムチ烏魯木斉)を経て,07年5月イリ(伊犂)に到着。ここで上原多市と別れ,天山山中を通ってカラシャールに出,そこからクチャ,カシュガルカラコルム峠を越えて,同年10月北インドのスリナガルに着いた。トルキスタンからインドに至る大探検と称賛され,のち《伊犂紀行》(1909)を著した。晩年は大本教に帰依し,幹部となった。
執筆者:

出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「日野強」の意味・わかりやすい解説

日野強
ひのつとむ

[生]慶応1(1866).12.7. 伊予,小松
[没]1920. 京都,丹波綾部
軍人,アジア旅行家。 1889年陸軍士官学校を卒業。 1902~04年清・韓国境の諜報に活動,日露戦争に従軍。 06年新疆視察を命じられ,呉禄貞とともに保定,鄭州を経て陝州で大谷光瑞と合流,西安まで同行。蘭州で呉禄貞は逮捕されて北京に送還された。ハミ,トゥルファンを経てウルムチに達し,イリ七城の地を視察。カラシャフル,クチャ,アクス,カシュガル,ヤールカンドからカラコルム嶺を越えてラダックのレー,カシミールのスリナガルに出,カルカッタから乗船して 07年 12月神戸に帰った。その見聞を記したのが『伊犁紀行』 (1909) 。のち辛亥革命で宗社党の動向を調査し,13年大佐をもって退役,青島で実業に従事。 19年帰国して大本教の幹部となった。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「日野強」の解説

日野強 ひの-つとむ

1866*-1920 明治-大正時代の軍人。
慶応元年12月7日生まれ。明治39年中国,インドに派遣され,1年4ヵ月かけて伊犂(イリ)(新疆(しんきょう)ウイグル自治区)からカラコルム峠をこえてインドに到達した。中央アジア踏査で知られる。陸軍大佐。大正9年12月23日死去。56歳。伊予(いよ)(愛媛県)出身。陸軍士官学校卒。著作に「伊犂紀行」。

日野強 ひの-きょう

ひの-つとむ

出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例

367日誕生日大事典 「日野強」の解説

日野 強 (ひの つとむ)

生年月日:1866年12月7日
明治時代;大正時代の陸軍大佐
1920年没

出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報

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