早田村(読み)そうでんむら

日本歴史地名大系 「早田村」の解説

早田村
そうでんむら

[現在地名]岐阜市早田大通そうでんおおどおり美島町みしまちよう早田栄町そうでんさかえまち津島町つしまちよう山吹町やまぶきちよう島栄町しまさかえまち光町ひかりまち・早田町・早田・学園町がくえんちよう早田本町そうでんほんまち早田東町そうでんひがしまち栄新町さかえしんまち岩倉町いわくらちよう日光町につこうちよう

長良川(旧井川)と長良古川に挟まれ、瓢箪の形をしたしま輪中の上半分にあたる。長良古川沿いに本郷、東に馬場ばんば、南に岩倉の支郷があるほか、一部が川筋の移動により長良川左岸の中河原なかがわら新田村の続き下川原しもかわらにある。天平勝宝二年(七五〇)四月二二日の美濃国司解(東南院文書)にみえる「厚見郡草田郷」の遺称地とされ、同郷は「和名抄」には皆太かやた郷と記載されている。慶長郷帳に草田村、元和二年(一六一六)の村高領知改帳に早田村とみえ、高七七八石余で幕府領。同五年尾張藩領となり幕末に至る。正保郷帳によれば高七七九石余で畑方のみ。


早田村
そうだむら

[現在地名]田主丸町八幡やわた

恵利えり村の西、ふる川と筑後川の合流点の微高地に位置する。筑後川には筑前国長田ながた(現甘木市)と結ぶ早田瀬徒渡(幅九〇間・深さ二尺)があり、北岸に飛地(長さ一八〇間・横九〇間)もあった(正保四年大小道之帳)。永禄六年(一五六三)一月二一日、五条鎮定と津江鑑盛が上筑後のうち守部跡闕所地の恩賞宛行について戸次鑑連を通じて大友宗麟に要求したなかに竹野たかの郡「さうた」六町がある(「上筑後守部跡坪付」五条家文書/史料纂集)。この要求は容れられなかったが、鑑連の説得によって「寒田」のうち三町分の知行が認められた(二月九日「鑑比書状」同上など)。天正一五年(一五八七)一月二三日、龍造寺政家は寒田三町を含む筑後国内一一二町を五条鎮定に宛行っている(「龍造寺政家充行状」同文書)


早田村
わさだむら

[現在地名]西伯町上中谷かみなかたに

定常さだつね村の南、法勝寺ほつしようじ川上流に位置し、同川枝谷あかん谷への分岐点にあたる。法勝寺往来が通り、南は赤谷あかんたに村。拝領高は一三八石余、本免は五ツ一分。藪運上銀三匁・大炭運上銀三匁五分が課され(西伯町誌)、米子荒尾氏の給地があった(給人所付帳)。幕末の六郡郷村生高竈付では生高一六〇石余、竈数一九。安政三年(一八五六)頃の身許九段調(細田家文書)によると家数二二、階層別の内訳は中の中一・下の上三・下の中二・下の下一四・等外二。「伯耆志」では家数一五・人数七〇、林一〇町九反余、物産として小炭・苧をあげる。産土神は馬場ばば村の八幡宮(現長田神社)、地内には修験当山派戒光院のほか小祠六・辻堂一があった。


早田村
わさだむら

[現在地名]吉川町楠原くすはら

市野瀬いちのせ村の南に位置し、美嚢みの川支流の吉川川と奥谷おくだに川の合流点に立地する。南は永門前えいもんぜん村。慶長国絵図に村名がみえる。領主の変遷は市野瀬村に同じ。正保郷帳では田方二三九石余・畑方一六石余。村高は幕末まで変わらない。当村はおき村・永門前村とともに元禄七年(一六九四)・享保一七年(一七三二)・文政一三年(一八三〇)などに入会鉾立ほこたて原野をめぐって栃谷とつたに村に対し境争論を起こしている(吉川町誌)


早田村
わさだむら

[現在地名]山東町早田

和賀わが村の東にあり、早田と上早田からなる。地内の御霊ごりよう神社は明智光秀を祀ると伝えるが、安置する木造坐像は武人でなく文人官人像ともみえる。山陰道筋で、「但州湯嶋道中独案内」ではしば村に続いて「和佐田村」が記される。


早田村
そうだむら

[現在地名]安来市早田町

佐久保さくぼ村の南東に位置する。正保国絵図に村名がみえ、元禄十年出雲国郷帳によると高一七六石余、うち永荒が三六石余あり残高一四〇石余。寛文四年(一六六四)には本田高一六二石余・新田高一四石余。「雲陽大数録」では高一四〇石。「郡村誌」によると田一八町五反余・畑一町四反余・宅地六反余・山林四五町二反余、戸数一四・人数五九、牛七。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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