明倫堂跡(読み)めいりんどうあと

日本歴史地名大系 「明倫堂跡」の解説

明倫堂跡
めいりんどうあと

[現在地名]高鍋町南高鍋 旧城内

高鍋城三の丸、かどの屋敷と称される所にあった。廉の屋敷は大手門通りが島田しまだ門と蓑崎みのさき門を結ぶ大通りと交わる角の屋敷を称し、高鍋藩五代藩主秋月種弘の時に学問武芸の稽古所のあった所である。明倫堂はそこからやや東寄りにあり、東面した建物であった。跡地は現在県立高鍋農業高校の運動場の一部となっている。

七代藩主秋月種茂が儒官千手興欽(号は廉斎)進言により、安永七年(一七七八)二月に創設した。明倫堂と名付けられ、同月二四日盛大な開講式が行われた(本藩実録)。小学と大学に分れ、小学を行習斎、大学を著察斎といい、従来からの武芸の稽古所に併設し、藩臣の子弟に文武を兼学させた。


明倫堂跡
めいりんどうあと

[現在地名]金沢市広坂二丁目

江戸時代の仙石せんごく町の東側、現在の近代文学館と中央公園の一部にあった藩校。当地は大槻伝蔵屋敷跡地であり、経武けいぶ館と隣接し、双方で文武の教育の場となっていた。一一代藩主前田治脩の寛政四年(一七九二)に現在の兼六園の南西部に建てられたが、居館建立のため文政五年(一八二二)当地に移転された(石川県教育史)

天保九年(一八三八)の学校図(加越能文庫)によれば、藩校の門(柵門と便門)は敷地内の南東部で広坂ひろさかに面し、入ってくぐに約二〇間四方の鎮守があった。


明倫堂跡
めいりんどうあと

[現在地名]那覇市久米二丁目

孔子こうし廟の東側にあった学校。啓聖けいせい祠・啓聖廟ともよばれ、学宮ともみえる(球陽)。現在の那覇商工会議所および国道五八号にかかる。康熙二二年(一六八三)に来琉した冊封正使汪楫と冊封副使林麟両名が撰文した琉球国新建至聖廟記の意をとった程順則は学校建設を請い、同五七年孔子廟境内に創建された(程氏名護家家譜)。初めて王府が設立した正式な教育機関で、翌五八年には設置を記念して琉球新建儒学碑が建てられた(県立図書館蔵原形碑拓本など)


明倫堂跡
めいりんどうあと

[現在地名]中区丸の内二丁目

天明三年(一七八三)九代藩主徳川宗睦が開設した学校。初代の総裁(のちに督学)には細井平洲が起用され、岡田新川・石川香山・冢田大峰・細野要斎などの大家があとを継いだ。藩士の子弟のほかに農民・町人も聴講を許され、生徒は初め五〇名ほどだったが、のちには一〇倍に達した。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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