初代文部大臣として日本の近代学校制度の基調を固めた代表的文教行政官。薩摩(さつま)藩の下士に生まれ、藩校造士館および開成所(洋学校)に学んだ。1863年(文久3)の薩英戦争を体験したのち、1865年(慶応1)には藩の内命でロンドンに留学、ついでアメリカに渡って神秘主義宗教家T・L・ハリスThomas Lake Harris(1823―1906)の感化を受けた。1868年(明治1)に帰国すると、ただちに明治政府に迎えられて徴士外国官権判事となり、ついで議事体裁取調、学校取調兼勤などに任命されたが、廃刀を建議していれられず辞任。1870年少弁務使としてアメリカ在勤を命ぜられて渡米し、外債募集や文化外交の衝にあたった。在任中、英文による『信仰自由論』や『日本の教育』の刊行を試みたが、1873年帰国して外務大丞(だいじょう)、清国(しんこく)公使、外務卿(きょう)代理などを歴任した。この間、明六社(めいろくしゃ)を設け、男女同権を論じて世論を導く一方、商法講習所(のちの一橋大学)を興して商業教育の端緒を開くなど幅広い啓蒙(けいもう)活動を展開した。ついで1879年特命全権公使としてイギリス駐在を命ぜられ、条約改正の交渉を進めたが、1882年の夏伊藤博文(いとうひろぶみ)とパリに会し、教育問題を論じて意気投合し、1884年帰国すると参事院議官、文部省御用掛兼務に任命された。翌1885年内閣制度の成立とともに第一次伊藤内閣の文相となった。1886年には帝国大学令など一連の学校令を公布して学校体系の整備を図り、とくに人材育成のため師範教育を重視し、これに兵式体操を導入した。在任約3か年、東北から沖縄まで全国各地を巡視して学校令の主旨を説いたが、その進歩的思想と果断な性格が誤解を招き、1889年(明治22)2月11日、帝国憲法発布の当日、刺客西野文太郎(にしのぶんたろう)(1869―1889)に襲われ、翌日43年の短い生涯を閉じた。
[上沼八郎]
『大久保利謙編『森有礼全集』全3巻(1972・宣文堂)』▽『井上勝也著『国家と教育 森有礼と新島襄の比較研究』(2000・晃洋書房)』▽『秋枝蕭子著『森有礼とホーレス・マンの比較研究試論』(2004・梓書院)』▽『長谷川精一著『森有礼における国民的主体の創出』(2007・思文閣)』
明治前半期の啓蒙思想家,外交官,教育行政家。初代文部大臣。薩摩藩士出身で,1865年(慶応1)藩命により五代友厚らとイギリスに留学。ロンドンで海軍測量術を研究し,ロシアをも巡遊。67年アメリカの宗教家トマス・ハリスを頼って渡米し,勤労と信仰の生活を送り,翌年帰国。明治新政府の徴士となり,議事体裁取調御用,学校取調となる。69年(明治2)公議所議長心得となり,廃刀論を提案したが否決され,一時免官となって帰郷。翌年上京を命じられ,アメリカに赴任し72年に代理公使となり,翌年帰国。この年8月に西村茂樹に相談して明六社を結成し,74年に《明六雑誌》を創刊。同誌に《妻妾論》その他を発表して,明治初期のいわゆる啓蒙思想の時代を現出させた。75年広瀬阿常と契約結婚し,駐清全権公使として中国に赴任し,さらに79年に駐英全権公使となって渡英し,84年に帰国した。この間,1873年に英文《日本の教育》を著して注目され,85年内閣制への移行に伴い,第1次伊藤博文内閣の文部大臣に就任した。学校教育全体にわたる教育理念を〈国家ノ須要ニ応ズル〉ものと一貫させて,86年〈帝国大学令〉以下の各学校令を制定し,国家主義的教育制度の確立に最も努めた。阿常との離婚後,87年に岩倉具視の娘寛子と結婚。89年2月11日の憲法発布式の当日,刺客西野文太郎に襲われ,翌日死去した。その著作は大久保利謙編《森有礼全集》全3巻に収められている。
執筆者:佐藤 能丸
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(村井実)
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外交官,教育行政官。初代文部大臣。薩摩藩士の五男として鹿児島に生まれる。幼名は助五郎,のち金之丞と称す。藩校造士館および藩の洋学校開成所で学ぶ。1865年(元治2)藩派遣の英国留学生に選抜され,ロンドンに留学。1867年(慶応3)にはアメリカに渡り,宗教家トーマス・レイク・ハリスからの影響を受ける。翌年帰国し,以後,米国在勤少弁務使,駐清公使,駐英公使などを歴任。1873年(明治6)の明六社設立,翌74年の『明六雑誌』創刊,75年の商法講習所(一橋大学の前身)創設など,啓蒙活動にも力を入れた。在米勤務中に,英文著作「Religious Freedom in Japan」と「Education in Japan」を発表。在英中にハーバート・スペンサーらと交流した。1882年(明治15),欧州歴訪中の伊藤博文に自らの教育方策を語って伊藤の信頼を得る。1885年第1次伊藤博文内閣の文部大臣に就任し,翌年帝国大学令,師範学校令・小学校令・中学校令や諸学校通則を制定し,学校教育体系の整備につとめた。帝国大学令では,帝国大学を「国家ノ須要ニ応スル学術技芸」の教授・研究機関と規定し,国家における大学の役割を明確化した。1889年の大日本帝国憲法発布当日,森が伊勢神宮において不敬な態度をとったと信じた国粋主義者の西野文太郎に刺され,翌日死去。
著者: 冨岡勝
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1847.7.13~89.2.12
明治前期の政治家。子爵。鹿児島藩士出身。1865年(慶応元)藩命でイギリスに留学,ついでアメリカに渡る。68年帰国。明治新政府に入り,急進的な改革意見を提出したが,保守派の反発で辞任。のち駐米公使・駐清公使・外務大輔・駐英公使などを歴任。その間,明六社の設立,「明六雑誌」の創刊に尽力し,初代社長として思想啓蒙活動にあたる。参事院議官・文部省御用掛をへて,85年(明治18)第1次伊藤内閣の文相。翌年,一連の学校令の制定を進め,知育中心の近代的学校教育制度の確立に努力。欧化主義者とみなされ,伊勢神宮参拝に際し不敬の行動があったとして保守派・国粋派の非難を浴び,憲法発布の日,神道家西野文太郎に襲撃され,翌日死去。
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…当初,運動会の性格は一定せず,徒競走などの陸上競技に二人三脚など余興の要素を加味したもの,陸上競技を主体としたスポーツ競技会およびスポーツクラブ,さらには〈壮士運動会〉や〈炬火行列大運動会〉のように,政治集会やちょうちん行列など,運動movementの集会も運動会と称していた。 学校行事としての運動会が普及したのは,85年初代文相森有礼(ありのり)による兵式体操の導入以降のことである。森は体育による集団訓練を重視し,その成果を公表する機会として運動会の施行を極力奨励した。…
…これらが自由民権運動を抑圧するためであることは明らかであり,学校は民衆教化の役割を負わされることになったのである。 ついで伊藤博文内閣の初代文相森有礼の下で,86年小学校令,中学校令,師範学校令,帝国大学令という四つの勅令が出され(学校令),小学校を義務制にするなど教育普及に向けて学校制度が整備されたが,同時に国家による統制は一段と強化された。東京大学(1877創立)を改編した帝国大学についても〈国家の須要に応ずる〉学術を研究・教授するというように目的が示された。…
…広義には,それ以降1947年3月学校教育法により再び大学から幼稚園までの諸学校が総合規定されるまでの間に公布された,学校種別単行勅令の総称。日本において,近代学校発足当初は学制(1872‐79),教育令(1879‐86)と諸種の学校制度を単一の法令で規定していたが,1885年内閣制度の成立にともない初代文部大臣に就任した森有礼は,政治,経済,社会の今後の変動を予想して,学校制度の追加,修正のたびに大規模な法令改訂を要する単一法令方式に替えて,学校種類ごとに各別の単行法令方式を採用した。立憲制の成立(1889),教育勅語の発布(1890)にともなう教育政策の変化を反映して,森文政期の学校令は1890年代に小学校令(1890)をはじめとして次々に改正され,その後日本の近代化の進展に応じて高等学校令(1894),師範教育令(1897),中学校令,高等女学校令,実業学校令(いずれも1899),専門学校令(1903)等が相次いで公布された。…
…公議所では勧農,租税,駅逓,貨幣,外交,貿易,鉱山,度量衡,商業,開墾,学校,出版,刑法,軍律,海軍,宗教,陸軍,営繕,水利などを議事の分課とし,積極的な審議を行った。とくに議長代行森有礼,副議長神田孝平ら開明派が審議をリードし,里数改正,通称の廃止,切腹の禁止,火葬廃止,帯刀廃止,入れ墨廃止,人身売買禁止,穢多非人廃止,地租改正など多くの改革案をとりあげて審議した。もちろん保守派の強い反対もあり,すべて答申されたわけではないが,活発な審議を通じて啓蒙的な役割を果たしたことは注目される。…
…C.G.ザルツマン,シュトイKarl Volkmar Stoy,ラインWilhelm Reinらドイツの教育者により,18世紀後半から19世紀にかけて自然学習および身体訓練の目的をもって唱道され組織された徒歩旅行Wanderungen,教育旅行pädagogischer Reisenなどの影響を受けつつも,日本独特の性格をもつ学校行事として展開された。初代文相森有礼による兵式体操重視方策の一環として,1886年2月高等師範学校男子部が千葉県銚子へ実施した行軍旅行が端緒とされる。同校では行軍旅行に自然観察,標本採集,史跡見学など研究・学習目的を加味して〈修学旅行〉と名づけた。…
…この主張は1872年(明治5)の学制の中に反映されている。これとは対照的に85年初代の文部大臣となった森有礼は,国家に対する国民の教育義務の一部として,義務教育における授業料の支払を課した。19世紀末から労働運動の高揚とともに無償教育の要求が登場し,雑誌《労働世界》は〈教育は人類社会の公有物なり,何人と雖(いえど)も之(これ)を私すべからず〉と主張,西川光二郎は授業料徴収が労働大衆の教育機会を妨げ,教育を〈一商品たらしめて〉いると批判した。…
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出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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