明石(市)(読み)あかし

日本大百科全書(ニッポニカ) 「明石(市)」の意味・わかりやすい解説

明石(市)
あかし

兵庫県南部にある市。東部と北部は神戸市に接し、南は明石海峡を隔てて淡路島を望む。1919年(大正8)市制施行。1942年(昭和17)林崎(はやしざき)村、1951年(昭和26)大久保町、魚住(うおずみ)村、二見(ふたみ)町と合併して西部に延び、東西16キロメートル、南北2~6キロメートルの狭長な市域となる。2002年(平成14)特例市(2015年施行時特例市に名称変更)、2018年中核市に移行。『播磨風土記(はりまふどき)』には「赤石(あかし)」と記され、『源氏物語』では「明石」が用いられている。その由来は諸説あるが、『明石市史』では赤みがかった土「赤磯(あかし)」によるとする。海岸には海食崖(がい)が形成され、そこが明石原人出土地で、アカシゾウなどの旧ゾウ化石も多く出土している。大化改新では畿内(きない)の西端を「赤石の櫛淵(くしぶち)」と定めている。大蔵谷に山陽道の明石駅家(うまや)が置かれ、また南海道の起点でその渡し場がいまの明石港付近にあった。魚住は摂播五泊の一つであった。1888年(明治21)山陽鉄道(現、JR山陽本線)が開通し、1919年山陽電鉄が敷設されると、中心街は駅南部一帯に移動する。1972年にはJR山陽新幹線が開通している。ほぼ山陽道沿いに国道2号も通り、山陽本線を挟んで国道250号が平行する。また北部を第二神明道路が走る。明石港へ向う国道28号、北上する175号がある。淡路島への定期船がある。1617年(元和3)小笠原(おがさわら)氏が移封されて築城、その南に10万石の城下町が建設された。1682年(天和2)以降松平氏の治下になり、廃藩置県で明石県を経て兵庫県に統合された。

 明治末期から明石川右岸に工場が進出し工業都市化が進む。第二次世界大戦末期に7回の空襲で市街の約83%が焼失したが、戦後も西部地域への工業化は進み、鉄道、国道沿いに大企業や関連下請工場が林立し、播磨臨海工業地域に属している。二見沖の大規模な人工島は二見臨海工業団地となっている。製造品出荷額では県の第4位である(2016)。一方、ベッドタウンとして東部の明舞(めいまい)団地、西部の大久保団地など住宅建設が盛んである。明石の浜は前面に淡路島の浮かぶ白砂青松の景勝地で『源氏物語』の舞台になり、『万葉集』『古今集』などの歌にも詠まれたが、いまはコンクリートの防波堤で昔日のおもかげはない。明石城には国の重要文化財指定の巽櫓(たつみやぐら)と坤(ひつじさる)櫓が残り、城跡はスポーツ、文化施設も備えた広大な県立公園である。人丸(ひとまる)には柿本人麻呂(ひとまろ)を祀(まつ)る柿本神社があり、近くに市立天文科学館が東経135度の日本標準時子午線上に建っている。駅南の魚(うお)の棚通りは、店頭の鮮魚のように活気ある明石らしさの漂う街である。面積49.42平方キロメートル、人口30万3601(2020)。

[二木敏篤]

『『明石市史』上下(1960、1970・明石市)』『稲垣足穂著『明石』(1963・木村書店)』『『明石市史 現代編1』(1999・明石市)』


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