明石町(読み)あかしちよう

日本歴史地名大系 「明石町」の解説

明石町
あかしちよう

[現在地名]高崎市若松町わかまつちよう宮元町みやもとちよう

明治六年(一八七三)成立した町。江戸時代は城郭の南東、外堀の外側に接し、東は下横しもよこ町、南は遠堀、北は家中屋敷と遠堀、西は大染だいせん(現宮元町高崎公園)に接する地域であった。「更正高崎旧事記」に「旧城主家人住居ノ地ニシテ、土俗呼デ馬上石ばけいしト唱ヘ来レリ、隣地ニ光明寺アリ、故ニ其明ト石トヲ片名ニ取テ明石町ト更ニ称ス」とある。馬上石とは和田わだ三石といわれるものの一石で、「高崎志」に「今前栽町向雲寺ノ南畠ノ中ニ、方ナル石屹然トシテ立ル是也、(中略)昔ヨリ奇異ヲ伝ヘタル故ニ、懼レテ他ニ移スコトヲ不得」とみえる。別名を化石・下和田方石かくいしといわれ、馬上は和田宿の時代に鎌倉街道にあった馬上ばじよう宿にちなむ(前掲旧事記)


明石町
あかしちよう

[現在地名]中央区明石町

十軒じつけん町の南に続く片側町。南西端の築地堀に架かる明石町橋を渡った西は南飯田みなみいいだ町。鉄砲洲てつぽうず南端に位置し、西側は築地堀(鉄砲洲川)、南・東は大川(隅田川)河口部に面し、三方に河岸地がある。町名は古く播州明石(現兵庫県明石市)の漁師が住居としたために付いたとも、景色が明石に似ているからともされる。安永三年小間附町鑑によると京間二九間三尺二寸、公役金を納める。名主は水田善三郎。明治元年(一八六八)当町と船松ふなまつ町二丁目・十軒町およびその西裏にあたる肥後熊本新田藩細川氏・因幡若桜藩池田氏の両屋敷地の地域を合せて築地外国人居留地として官収された。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

日本大百科全書(ニッポニカ) 「明石町」の意味・わかりやすい解説

明石町
あかしちょう

東京都中央区南部、隅田川(すみだがわ)下流右岸にある一地区地名の由来は、江戸時代、播磨(はりま)国(兵庫県)明石の漁夫が移住したためとも、この地が明石の浦の風景に似ていたことから名づけたともいう。低湿な沖積地にあり、東京地下鉄日比谷(ひびや)線築地(つきじ)駅、有楽町(ゆうらくちょう)線新富(しんとみ)町駅に近い。明治初期には外国人居留地が置かれ、西欧文明の玄関口となった。聖路加病院(せいろかびょういん)もその名残(なごり)の一つで、杉田玄白(げんぱく)らが『解体新書』の翻訳をした所でもある。東隅から佃(つくだ)大橋が通じ、佃地区のある月島に至る。

[沢田 清]


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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「明石町」の意味・わかりやすい解説

明石町
あかしちょう

東京都中央区南部の地区。地名は,江戸時代,播州明石の漁師が移住した地であることに由来する。また,明石ノ浦に似ていることにもよるといわれる。聖路加病院がある。築地の東側を占め,明治初年の外国人居留地跡。日本最初の有線電信発祥地。慶應義塾 (→慶應義塾大学 ) の発祥地で碑がある。

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