星野仙一(読み)ホシノセンイチ

デジタル大辞泉 「星野仙一」の意味・読み・例文・類語

ほしの‐せんいち【星野仙一】

[1947~2018]プロ野球選手監督岡山の生まれ。昭和43年(1968)、中日ドラゴンズ入団投手として活躍し、昭和49年(1974)には沢村賞受賞。引退後は中日などの監督を歴任北京オリンピックでは日本代表チームの監督を務めた。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「星野仙一」の意味・わかりやすい解説

星野仙一
ほしのせんいち

[生]1947.1.22. 岡山,倉敷
[没]2018.1.4. 三重
プロ野球選手・監督。岡山県立倉敷商業高等学校から明治大学を経て 1968年のドラフト 1位(→ドラフト制度)で中日ドラゴンズに入団。読売ジャイアンツ巨人)から指名の可能性を伝えられるも,実際には指名されなかったことで,巨人への反骨心が芽生えた。打者に向かっていく闘志あふれる「ケンカ投法」で知られる一方で,変幻自在な巧みな投球術が光った。1974年に「宿敵」巨人の 10連覇を阻み,セントラルリーグ(セ・リーグ)でチームを 20年ぶりの優勝に導くとともに,初代最多セーブ賞と沢村賞をダブル受賞した。1982年現役引退,通算 500試合に登板し 146勝 121敗 34セーブ,防御率 3.60。「巨人キラー」として巨人から 35勝を上げた。1987年に中日監督に就任,1988年と 1999年にセ・リーグで優勝し,その後に率いた阪神タイガースでも 2003年に優勝。史上初めてセ・リーグ 2球団を優勝へ導いた。2004年に阪神シニアディレクター就任。2008年の北京オリンピック競技大会に日本代表監督として臨んだがメダルに届かず 4位。東北地方太平洋沖地震が起こった 2011年に東北楽天ゴールデンイーグルス監督を務め,2年後の 2013年にパシフィックリーグ優勝。さらに日本シリーズで巨人を破り,球団初,かつ自身にとっても選手・監督を通じて初の日本一となった。2014年シーズンで退任し,2015年9月から楽天球団の副会長。正力松太郎賞を 2003年,2013年の 2度受賞。2017年に野球殿堂入りした。(→プロ野球

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「星野仙一」の解説

星野仙一 ほしの-せんいち

1947- 昭和後期-平成時代のプロ野球選手,監督。
昭和22年1月21日生まれ。44年中日に入団。投手。49年与那嶺要監督のもと先発,リリーフに活躍し,優勝に貢献。巨人戦につよく「燃える男」とよばれた。実働14年,通算146勝121敗34セーブ,防御率3.60。62-平成3年中日監督(63年リーグ優勝)。8年からふたたび中日監督(11年リーグ優勝)。14年阪神監督となり,15年リーグ優勝。19年北京五輪野球日本代表監督。22年東北楽天ゴールデンイーグルス監督に就任。25年楽天をリーグ優勝,日本シリーズ優勝に導く。同年正力松太郎賞。岡山県出身。明大卒。

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367日誕生日大事典 「星野仙一」の解説

星野 仙一 (ほしの せんいち)

生年月日:1947年1月22日
昭和時代;平成時代のプロ野球監督

出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報

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