日本大百科全書(ニッポニカ) 「書の鑑賞」の意味・わかりやすい解説
書の鑑賞
しょのかんしょう
文字は代々書き継がれ、多くの能書が現れて、さまざまな書体や書風を生み出した。そうした古典によって先人の書法と書品を学ぶことは重要である。目で見ること、いわゆる「目習い」は、書の上達につながるばかりでなく、歴史上に著名な人物が書いた筆跡は、その書を通じて歴史の窓をのぞく興味を抱かせてくれる。今日では印刷、写真術の進歩で、図版や研究書、解説書も多く刊行されており、学習、鑑賞に便利になっている。書の鑑賞は、運筆、構成、墨色、配置などの表現美と書の風格を見るが、一定の基準というものがないので、多くの書を見て鑑賞眼を養うことがたいせつである。「手習い」ももちろん鑑賞の理解を深めるうえで効果があるが、いわゆる習字の稽古(けいこ)だけに終始していては書の本質を知ることはできない。各種の展覧会で肉筆の作品を見ることも鑑賞眼を高めるうえで役だつ。書は要するに人格・個性の表現であり、筆者の思想、感情、教養、人間性が作品に投影されるのは当然である。没個性的な書よりも、巧拙を離れて鑑賞者の心を打つのが、鑑賞に耐えられるよい作品といえる。
以下、和様書道の鑑賞に必要な、書の用語とその特色について述べる(五十音順)。
懐紙(かいし)
一定の大きさの紙に書式に従って漢詩、和歌を書いたもの。平安時代に貴族たちが畳んで懐中にした懐紙(ふところがみ)(畳紙(たとうがみ))に即席に詩歌をしたため贈答したのが、後世鎌倉から室町時代にかけて一定の書式をもつようになった。和歌懐紙は檀紙(だんし)、奉書、杉原(すぎはら)紙の縦32センチメートル、横40センチメートルほどの紙に、右端に手のひらを置くくらいの余白を置いて、歌の題、官位氏名、歌の順に書く。和歌が1首の場合は3行3字に書き、最後の3字は万葉仮名(まんようがな)で書く決まりになっている。現存する懐紙の最古の例は藤原佐理(すけまさ)の『詩懐紙』(10世紀後半)で、和歌懐紙では12世紀なかばの一群の『一品経(いっぽんきょう)和歌懐紙』がある。また13世紀初頭、後鳥羽(ごとば)上皇の熊野参詣(さんけい)のおりの『熊野懐紙』は当時の有名歌人の筆跡を含み、書道史上きわめて重要である。
色紙(しきし)
もとは白紙に対して色に染めた紙をいった。平安中期から鎌倉時代にかけて、風景画などを描いた屏風(びょうぶ)、障子(現代の襖(ふすま))の上方にその景色にちなむ和歌を書いた色紙を貼(は)ったが、これから詩歌を書く方形の紙をさすようになった。色紙は白紙のものもあるが、多くは表面に種々の文様や金銀の箔(はく)を置き、大きさも初期は不定だったが、しだいに大色紙、小色紙、桝(ます)色紙(正方形)、極小形の豆色紙などの規格が定まった。
条幅(じょうふく)
掛軸の一種。中国の明(みん)末清(しん)初に書を壁に掛けて鑑賞することが流行し、条幅や額の大作が発展した。料紙の大きさは普通、大中小の3種があり、全紙1枚の寸法はほぼ縦2横1の割合になっている。全紙を縦に用いたものを堂幅(どうふく)といい、全紙を縦に半截(はんせつ)した紙、半切(はんせつ)で書かれた軸物を条幅という。大字の横額も多くはこの寸法で書かれる。条幅を書く場合は序破急の呼吸で仕上げるが、文字群の字の間隔を均等にするか、不均等にするかによってリズムに変化が生ずる。落款(らっかん)も作品の一要素で、一般に紙の余白の中ほどに置く。茶掛(ちゃがけ)は本来、茶席の鑑賞に供する掛軸で、季節、内容ともに茶の精神に適したものが選ばれる。今日用いられる茶掛は茶席だけでなく、仮床(かりどこ)のような狭い空間にも掛けられる小ぶりの軸をさすことが多い。
書状(しょじょう)
手紙文。漢文で書かれたものを尺牘(せきとく)といい、仮名の書状を消息(しょうそく)という。書状は各人各様の個性的な筆跡で、書いた人の人格、生活状況や秘められた歴史の一こまをのぞかせて興味深い。光明(こうみょう)皇后の『杜家立成(とかりゅうせい)雑書要略』は、中国隋(ずい)末から唐初にかけて活躍した杜正蔵(としょうぞう)の著作になる手紙文集である。平安初期の空海(くうかい)の『風信帖(ふうしんじょう)』と最澄(さいちょう)の『久隔帖(きゅうかくじょう)』は、ともに名筆の聞こえ高い尺牘である。平安末期に藤原明衡(あきひら)の『明衡往来(めいこうおうらい)』という模範文集ができ、以来「往来物」とよばれる各種の文例集が現れた。書状の形式は奈良時代に始まり、書き出しの文句や結句、日付、宛先(あてさき)の敬称もしだいに固定した。目上の人に出す書状に余白の1枚を添える礼紙(らいし)消息の風習は平安時代に始まり、今日でも空白の便箋(びんせん)を1枚添えるという形で残っている。
短冊(たんざく)
和歌、俳句を書くのに用いる細長い料紙。平安時代に小さい紙片に手紙、和歌などを書き、小枝に結び付けて相手に贈った。これを短籍(ひねりぶみ)と称したのが始まりで、当初は紙の寸法も一定せず、身分の高下によってもまちまちだったが、室町末期に長さ35.7センチメートル、幅5.4センチメートルと定まった。また雲形や下絵、箔などで飾るようになった。雲形は青が上で紫が下(この反対は弔の場合)、砂子または箔は余白の多いほうが上。花鳥人物は文字で汚さないようにする。題は上3分の1に書き、3分の1のところに半字かけ、勅題は3分の1より下から書き始める。行頭に漢字が二つ並ぶのを嫌うから、字の配置を考え、自詠の場合は作者名を記す。
散らし書き(ちらしがき)
色紙などに和歌を書く方法。一定の原則はないが、行間に変化をもたせるために、書き出しを高くしだいに低くしてゆく降下式や、歌を二分する分別式などがある。2字、3字と連綿してリズムを出し、墨継ぎ、中墨、墨がすれなどで墨の濃淡を対応させ、風景画のように遠近を表現する。俳句は通例、3句で墨をつぐ。葦手書(あしでがき)は散らし書きの一種で、葦の群生しているさまに似せて行に高低をつけたもの。平安中期から行われていたが、のちに水辺の景色を下絵に描き、その中に漢字や仮名を模様化して、あたかも字探しのように書き込んだものも葦手書というようになった。
対幅(ついふく)
幾幅かで1組になっている掛物。室町末から桃山時代にかけて書院造の建築様式が定まり、床の間に掛軸を掛けるようになった。3幅を1組としたものを三幅対、2幅を1組としたものを対幅または双幅(そうふく)という。三幅対は仏教の三尊仏を表し、中央の幅を本尊、左右の幅を脇侍(わきじ)に見立て、各幅は同じに表装するのが習わしである。本尊の位を高くみて中幅と左右の幅とで裂地(きれじ)を別にする場合でも、一文字(いちもんじ)の裂を中幅の中縁(なかふち)に使うなどして統一する。四幅対で四季を題している場合は、向かって右から秋春夏冬とするか春夏秋冬と並べる。対幅は広いスペースを必要とするので、今日では大きな邸宅や寺院以外ではあまり用いられない。
遺偈(ゆいげ)
高僧の筆跡は、正統な書法を踏まえて書かれたものは少ないが、長年にわたる信仰と修行によって到達した精神の高さがおのずから書に反映して、見る者の心を打つ。禅僧の墨跡はいろいろあるが、特殊なものに遺偈がある。これは、死の間近いことを自ら悟って、弟子に残す辞世の一種で、聖一国師、清拙正澄(せいせつしょうちょう)の遺偈は有名だが、寂室元光(じゃくしつげんこう)は78歳で示寂(じじゃく)する直前に最後の力を振り絞って書き、筆を置いて世を去った。禅僧ではないが、烏丸光広(からすまみつひろ)の遺偈も、死に臨んでなお奔放闊達(かったつ)な独自の書の表情をみることができる。
落款(らっかん)
書や画の一端に作者の姓名、号を署し、印などを押して作品の完成の意を表すこと。年月、干支(えと)、贈る相手の姓号を書き入れることもある。普通は署名の下に押す印のことを落款と称している。一方、書画の上の隅に押す長方形または長楕円(だえん)形の印を引首(いんしゅ)印とか関防(かんぼう)という。関防はもと官の公文書の偽造を防ぐために押した割印のことで、方形の印が半分になるところから長方形になった。落款や引首印を押す習慣は中国の宋(そう)代に始まり、閑雅の句を選んで刻する。
臨模(りんも)
書の名筆の原型を保存するための模字。いくつかの方法があり、(1)臨は、手本をよく見ながら忠実に写すことで臨書という。(2)模は、薄い紙を手本にかぶせ、上から字の輪郭をたどりながら字形を写す透き写しの方法。(3)響搨(きょうとう)は、手本の上に薄紙を当て、裏から光を当てて写す。(4)双鈎填墨(そうこうてんぼく)は、文字の輪郭の外辺に沿って細い線を引き、できた籠字(かごじ)の中を墨で塗りつぶす。現存の王羲之(おうぎし)の書のすべてはこうした模本である。
[小川乃倫子]