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 しょ

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説


しょ

文字を素材とする造形芸術。書は中国,東晋の王羲之によって確立され,専門書家や文人がそれを発展させ,金石学 (宋) ,碑学 (清) による研究も行われた。殷代の甲骨文をはじめ,木簡,碑,金石文などが知られているが,古代の書は法帖として残るのみである。

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デジタル大辞泉の解説

しょ【書】


毛筆で文字を書くこと。また、その書き方。書道。「を習う」
書かれた文字。筆跡。「空海の
書物。本。「をひもとく」「万巻の
手紙。書簡。「をしたためる」
書経」の略。

しょ【書】[漢字項目]

[音]ショ(呉)(漢) [訓]かく ふみ
学習漢字]2年
文字をかきしるす。「書記書写朱書浄書大書代書板書
一定のかき方でかいた文字。「書画書道楷書(かいしょ)草書篆書(てんしょ)
事柄をかきつけたもの。文書や手紙。「書簡書類遺書願書証書信書投書封書返書密書
本。書物。「書籍書店書物古書司書辞書叢書(そうしょ)蔵書著書図書読書洋書
書経」のこと。「詩書
[名のり]のぶ・のり・ひさ・ふむ・ふん

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百科事典マイペディアの解説

書【しょ】

文字を素材とする造形芸術で,中国,朝鮮,日本などで発達した。中国ではすでに殷(いん)周代から甲骨文金石文にすぐれたものが見えるが,漢代になって字体の統一,専門書家の出現,さらに2世紀初めの蔡倫(さいりん)による紙の発明などによって盛んとなり,東晋の王羲之の出現で大いに発達した。
→関連項目カリグラフィー古筆習字草仮名

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世界大百科事典 第2版の解説

しょ【書】

文字を書くこと,または書かれた文字を,主として造形面から審美的な対象として意識したときに成立する一つの芸術。とくに中国を中心として,日本,朝鮮,ベトナムなど東洋の漢字世界において古くから発達した。その他の地域,例えばイスラム世界ヨーロッパなどにも,文字を審美的な対象として書くことはあるにはあったが,東洋の漢字世界に比べて,その意義や重要性は小さいといえよう。したがって,書は中国を中心とする東洋の漢字世界に発達した独自の芸術であると言ってもよい。

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大辞林 第三版の解説

しょ【書】

[0] 文字を書くこと。また、書き方、書いた文字。 「定家の-」 「 -を習う」
[1] 文字を素材とした造形芸術。 「 -の展覧会」
[1] 書き記したもの。書物。文書。 「万巻の-を読破する」
[1] 手紙。 「 -を呈す」
「書経しよきよう」の略。

出典|三省堂
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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説


しょ

筆・墨などを用い、漢字・仮名の文字を書くことによって表現される造形芸術。書は中国と日本で発達した独特の芸術で、漢字のもつ造形的な要素と密接な関係がある。中国では古くから六芸(りくげい)(礼・楽・射・御・書・数)の一つに数えられ、官吏や知識人の必須(ひっす)の教養科目であった。運筆、構成、墨色、配置などの美や、作品に現れた筆者の風格が尊ばれ、東晋(とうしん)の書聖王羲之(おうぎし)の筆力が木に三分も墨が浸透するほどであったという故事にちなみ、入木道(じゅぼくどう)と称し、筆道(ひつどう)ともいった。書は文字を表記の手段としてだけでなく、筆者の芸術的創作として鑑賞の対象とする。したがって、印刷文字や日常の実用文書は書とはいわない。しかし、歴史的な実用書写である書状や写経などで芸術的に優れたものは書として鑑賞される。書体、書風、書法など時代や流派によりさまざまであるが、最近では古典を追究解明しようとする半面、従来の形式を離れた新しい分野の開拓が試みられている。[小松茂美]

中国書道史


文字の発明と書の始まり
中国の文字つまり漢字は、紀元前2800年ころ、黄帝の史官であった蒼頡(そうきつ)が鳥の足跡を見て発明したといわれるが、もとより伝説の域を出ない。中国で文字が発明される以前は、縄の結び目によって数や事柄を伝えたといわれるが、文字の始まりはきわめて単純な線の組合せであった。その後、夏(か)、殷(いん)の時代(前1500ごろ~前1050ごろ)になって、亀甲(きっこう)や牛・鹿(しか)などの獣骨に小刀で線画のような文字を刻んだ甲骨文(こうこつぶん)が現れた。これらは、国家の大事、戦争や狩猟や農事を占った記録であり、清(しん)朝の末期(1899)に、殷の都の跡といわれる河南(かなん/ホーナン)省安陽(あんよう/アンヤン)県小屯(しょうとん)で多数の甲骨片や古印が発掘され、古代文字の存在が明らかになった。同じ遺跡から陶片に墨で下書きしたものも発見され、古代にすでに今日の筆に近いものや墨が用いられていたことがわかる。また殷時代には銅器に絵文字のような銘文が刻まれた。これを金文(きんぶん)という。近年これらの古代文字の芸術性が注目されるに至った。このように形象・表意文字である漢字は、創生の始めから書体、書風という造形的な要素が重視され、実用の記号文字としての範囲を越えて、芸術として鑑賞される宿命をもっていた。
 殷に続く周時代は西周から東周に分かれ、やがて春秋戦国(前8世紀~前3世紀)の世となって、封建諸侯の勢力は拡大し、周王室は衰えた。文書、記録の類は多くなり、文字の数も増したが、政治が地方に分立してから字形の混乱がおこり、正式な書体や略式の書体とともに装飾文字ができた。これは、銅器の鐘の銘文や銅貨幣、兵器の剣や矛(ほこ)などに金象眼(ぞうがん)して施された。後世「鳥書(ちょうしょ)」とよばれるデフォルメされた文字もその一つである。
 また石鼓(せっこ)とよばれる太鼓のような形の石に文字を刻んだものが10個、唐代に発見されたが、成立年代は東周あるいは戦国初期と推察され、石に刻まれた文字としては最古の遺物で、この石鼓文の書体を大篆(だいてん)あるいは籀文(ちゅうぶん)(周王室の史官、史籀(しちゅう)の書いた文字)とよぶ。
 この時代にはまだ紙はつくられておらず、帛(はく)(布)や竹に文書が記された。1930年代の後半、湖南(こなん/フーナン)省長沙(ちょうさ/チャンシャー)の古墳から、帛に書かれた絵と文字からなる文書が発見され、また1950年代の初め、同じ長沙遺跡から、竹の細長い片に墨書された竹簡(ちっかん)が発見された。これらは副葬品の目録とみられ、戦国末期の楚(そ)のものと認められている。肉筆による古代の筆写体文字の最古の資料として貴重である。[小松茂美]
書体の分化と発展
周が滅び戦国時代を経て、やがて秦(しん)(前221~前206)が天下を統一すると、始皇帝は自国の文字を中心にして、混乱していた書体の統一を図った。統一以前の文字を大篆(籀文)とよぶのに対し、統一後の文字を秦篆(しんてん)または小篆(しょうてん)という。始皇帝は各地に自らの頌徳(しょうとく)碑を建設させたが、大臣の李斯(りし)は始皇帝のために多くの刻石に筆を振るった。現存するものに始皇28年(前219)の紀年のある『泰山刻石(たいざんのこくせき)』『琅邪台刻石(ろうやだいのこくせき)』がある。あらゆる制度文物を統一しようとした始皇帝は度量衡も官製の原器をつくり、秤(はかり)に詔書を刻んで民間に配布した。
 秦が滅びたのち、漢の高祖は都を長安に定めた。漢時代は前漢(前202~後8)と後漢(ごかん)(25~220)に分かれるが、当初は秦時代の篆書がそのまま用いられていた。しかし、装飾的で複雑な篆書は文書の作成に不便で、簡素化された隷書(れいしょ)が下級官吏の間で発明され(隷は賤(いや)しい者の意)、やがて一般もこれを用いるようになった。初期のものを古隷(これい)といい、後漢のころの字形の整った左右均整の華麗な字体を八分(はっぷん)という。篆・隷は縦横の字画が均整で、終わりの筆を右にはねるようにして止める。これを波勢(はせい)という。漢時代は一般的には隷書が用いられたが、印や鐘銘など荘重な書体を必要とする箇所にはまだ篆書が用いられていて、当時盛んになった碑は、頭部の題字だけは篆書で書くことが行われた。これを篆額(てんがく)(額は頭部の意味)といい、現在でも碑文にこの形式を踏むことがある。
 漢末には、隷書のなかで使用頻度の高い文字は徐々に単純化されて草書(そうしょ)が現れた。これを古草(こそう)という。古草から章草(しょうそう)が生まれた。漢の章帝が発明したとも、皇帝に章奏する書に用いたからともいわれる。この時代の草書は篆・隷の影響で、おもな字画や終わりの筆は下に続けず右にはね出すのが特徴である。のちに草書は下の字画へ続けて流すようになり、連綿体(れんめんたい)が生まれた。また隷書の速書きから行書(ぎょうしょ)が生まれた。行書は漢の劉徳昇(りゅうとくしょう)の発明といわれる。これと前後して今日の楷書(かいしょ)も形成された。こうして漢末には篆・隷・草・行・楷の漢字の五体がほぼ出そろい、以後は字体の変化はなく、書風が問題にされるようになる。
 20世紀の初め、中国の西域(せいいき)地の楼蘭(ろうらん)、敦煌(とんこう)、居延(きょえん)などの遺跡から、各国の学術探検隊によって、1万2000点に及ぶ漢・晋(しん)時代の木簡(もっかん)が発掘された。木簡は、木をそいで1片に1行10字前後の文字を墨書したもので、この木片を簾(すだれ)のように編んだものを冊(さく)という。また1972年に前漢時代の二つの墓(馬王堆(まおうたい)1号墓と2号墓)からは多数の竹簡が発掘された。これらの木簡・竹簡は日常の記事や公用書を筆記した実用の書で、用筆もきわめて簡略で、書かれた年が記してあるものが多く、漢から晋に至る字体の成立発達過程をたどる史料として重要である。
 木簡とともに西域出土の肉筆史料として写経がある。これらは紙に筆・墨を用いて、通常の行・草よりやや謹厳な楷書風の筆法で書かれている。ところで、紙は後漢の初期に蔡倫(さいりん)によって発明されたと伝えられる。それ以前は木簡のほかに絹の布(帛)があったが、高価であった。紙の普及は書の発達に重大な影響を及ぼした。手に持って書いた木簡から、机のような平面の上に紙を広げて書くようになり、書写材料の変化は、当然、運筆の姿勢にも変化を及ぼし、紙に書写することによって、書はいっそう芸術的に表現されるようになった。後漢時代の多くの美しい隷書の碑は、まず紙に書いてから石工が刻んだものと考えられている。
 この時代の書家には、篆・隷に曹喜(そうき)、章草に蔡(さいよう)、杜度(とたく)、張芝(ちょうし)らがおり、また後漢の許慎(きょしん)は『説文解字(せつもんかいじ)』を著して漢字の造字法や転用法を説いた。[小松茂美]
王羲之の出現と中国書道の確立
漢の滅亡(220)ののち、魏(ぎ)・蜀(しょく)・呉(ご)の三国の対立時代となり、晋(しん)が統一するが(265)、やがて北方民族に押された漢民族は南に移って東晋を建て、揚子江(ようすこう)流域には華やかな六朝(りくちょう)文化が栄えた。
 漢時代におこった書は、魏の鐘(しょうよう)、東晋の王羲之(おうぎし)、王献之(おうけんし)が出るに及んで、中国書道の最高峰となった。
 王羲之は官名によって王右軍ともよばれる。古来の書の表現方法を集大成し、貴族的な清明な書風で、楷・行・草の三体の書芸術を完成し、書聖と仰がれる。その影響は中国、日本を通じ、広く長く後世に及んだ。羲之の書として伝えられるものに、行書の『蘭亭序(らんていじょ)』『集字聖教序(しゅうじしょうぎょうのじょ)』、草書に『十七帖(じょう)』『喪乱帖(そうらんじょう)』『孔侍中帖(こうじちゅうじょう)』、楷書に『東方朔画賛(とうぼうさくがさん)』『楽毅論(がっきろん)』がある。これらはいずれも真蹟(しんせき)は伝わっていない。臨模(手本を見て書く)か双鉤填墨(そうこうてんぼく)(真蹟の上に薄い紙をのせ細い筆で輪郭をとり、これを墨で埋める、いわゆる籠字(かごじ))したり、それをさらに石に刻み拓本にとったものである。羲之の書はほとんどが尺牘(せきとく)(手紙)で、有名な『蘭亭序』も一字の大きさは約2センチメートル、いずれの文章も短いが、一字ごとにくふうが凝らされ、書としての妙が尽くされている。
 王献之は羲之の第7子で、若いときから書に優れ、つややかさは父をしのぐとさえいわれた。作品には『洛神賦(らくしんふ)』(楷)、『中秋帖(ちゅうしゅうじょう)』(草)などがあるが、これも真蹟は伝わっていない。父を大王、献之を小王とよび、この2王によって中国書道の基礎は確立された。
 晋に続く南北朝(420~534)には仏教の影響で写経が盛んになり、楷書で美しく書かれた写経体が生まれた。また南朝のころに雑体(ざったい)の書が流行し、これは唐代まで続いた。これは篆・隷をデザイン化した装飾文字で、正倉院の『鳥毛篆書屏風(びょうぶ)』にみられるような華麗な色彩を施した工芸品が室内装飾に使われた。
 江南に対し華北の地に建ったモンゴル系の北魏(ほくぎ)には、碑、磨崖(まがい)、墓誌(ぼし)など多くの石刻があり、角張った緊密な構成と剛健な書風で注目される。ことに墓誌の類は雄偉な楷書で刻され、地上に建てず墓中に埋められたので、風化を免れており、近世になって発掘され再認識されている。[小松茂美]
書風の発達
(ずい)の南北統一はわずかの期間にすぎなかった(589~618)が、隋によって築かれた新文化は唐(618~907)に受け継がれ、長い平和によって文学、芸術の花を開き、書道の黄金時代を現出した。このころ、遣唐使によって日本にも書の名品が数多く伝わり、習字が盛んに行われるようになった。隋・唐時代はとくに王羲之の書風が重んぜられた時代で、隋代の釈智永(しゃくちえい)は王羲之7世の孫にあたり『真草千字文(しんそうせんじもん)』を書いている。初唐に入ると、品格ある書風の虞世南(ぐせいなん)(『孔子廟堂(びょうどう)碑』など)、方正峻厳な書の欧陽詢(おうようじゅん)(『九成宮醴泉銘(きゅうせいきゅうれいせんのめい)』など)、初唐の楷書の頂点ともいえる清麗な書を残した遂良(ちょすいりょう)(『雁塔聖教序(がんとうしょうぎょうのじょ)』など)の三大家が出た。また科挙(かきょ)(官吏採用試験)の科目の一つに書が取り入れられ、書道が政治家や官吏になるための必須(ひっす)の教養とされた。
 唐の太宗皇帝(在位627~649)は書に対するなみなみならぬ情熱をもち、自身も『温泉銘』などで知られるような名手であったが、王羲之の書を熱愛し、広く天下に詔して羲之の真蹟を集め、写させた。なかでも永年求めていた『蘭亭序』を手に入れると、数多く臨模させ、真蹟は崩御の際、棺に入れて葬らせた話は有名である。こうして王羲之の書風は広く世に伝えられ、唐代の書道の隆盛に拍車をかけたばかりでなく、わが国にも伝えられて、日本書道にも大きな影響を及ぼした。
 唐の中期になると、こうした風潮に飽き足らず、新しい書風が生まれた。孫過庭(そんかてい)は『書譜(しょふ)』を著して従来の伝統を尊重すべきことを説いたが、唐の中興を成し遂げた玄宗(在位712~756)の時代には、李白(りはく)、杜甫(とほ)らの詩の全盛と呼応して、剛直重厚な書風の顔真卿(がんしんけい)(『争座位帖(そうざいじょう)』など)をはじめ、李北海(りほっかい)、賀知章(がちしょう)、徐浩(じょこう)ら多くの著名な書家を輩出した。また漢・秦にさかのぼって篆・隷を研究しようとする復古主義の傾向や、張旭(ちょうきょく)(草書帖)、懐素(かいそ)(草書千字文)のように、新しい草書による革新的な書の追究は、次の宋(そう)・元(げん)・明(みん)時代の狂草体(感興に任せて速いスピードで書く草書)の先駆となった。[小松茂美]
宋代以降の書
唐末の混乱から天下を統一した宋(960~1279)は、北宋から南宋へおよそ320年続くが、このころになると、王羲之らの筆法を学ぶには、複製のさらに複製となって、真蹟とはあまりにも遠く、形骸(けいがい)化し、かわって独特の浪漫(ろうまん)的な書風が生まれた。また古代の篆書への関心がいっそう高まったのもこの時代の特徴である。米(べいふつ)(元章)は書画ともに優れ、書は行書を得意とした(『蜀素帖(しょくそじょう)』など)。蘇軾(そしょく)(東坡(とうば))は文学と書で当代随一といわれ、豪放な書風で後世に影響を及ぼした(『黄州寒食詩巻』など)。また蔡襄(さいじょう)は政治家・文人として優れ、楷・行をよくし、黄庭堅(こうていけん)は草書に妙味をみせた。これら宋の四大家のほかに、北宋の徽宗(きそう)も独特の書を残した。徽宗は帝王としては失敗したが、文化興隆のうえでは歴史に名を残す功労者である。自身書画をよくし、この時代に文房具などの趣味が盛んになったのも徽宗の力によるところが大きい。南宋では徽宗の子の高宗も優れた楷書を残している。また張即之(ちょうそくし)は禅思想による独特の書をかいた。宋代には諸産業がおこり、書道文化に関係の深い紙・墨・筆などの特産品が各地に現れた。また印刷術が発達して、手による書写にかわって、印刷による書籍が普及したのもこの時代の大きな特色である。
 モンゴル民族の建てた元王朝(1271~1368)では、趙子昂(ちょうすごう)が出てふたたび王羲之への古法が復活した。また宋・元時代に盛んになった禅宗の僧の筆跡は、書法に拘束されない自由な筆法で人格の発露とみられ、ことにわが国の鎌倉期に墨跡とよばれて珍重された。
 明(みん)代(1368~1662)末期になると、いままでにない長く大きな条幅が盛んに書かれるようになり、そうした紙幅の形式にあうような連綿体の草書が流行した。
 満州から興った清(しん)(1616~1911)の諸帝も書を好み、漢碑や唐碑の調査、金石文の研究も盛んになった。また古銅器の発見や整理から、元や明時代に生まれた文人による篆刻(てんこく)がこの時代にさらに発達した。いわば清時代は中国の書の大成の時期といえる。しかし全体の傾向としては、時代の下るにしたがって低下の傾向をたどったのはやむをえない。第二次世界大戦中の中国では、知日家としても知られる郭沫若(かくまつじゃく)の書名が高い。戦後の文化革命以後は文字改革が行われ、簡略化が進められている。また考古学研究が全土にわたって活発に行われ、それによる書道史の新しい発見が期待されている。[小松茂美]

日本書道史


中国書道の影響
日本における文字の使用は漢字の伝来に始まる。かつてはそれに先行する「神代文字」の存在が主張されたこともあったが、今日では否定され、日本は固有の文字をもたなかったという結論に達している。1世紀なかば中国の後漢(ごかん)の光武帝(在位25~57)のとき、北九州の一角にあった奴国(なのくに)の王がもらったという「漢委奴国王(かんのわのなのこくおう)」の金印が文字遺品として最古のものである。『古事記』に応神(おうじん)天皇のとき王仁(わに)が百済(くだら)から来日して『論語』10巻、『千字文』1巻を貢進したとあるが、大和(やまと)朝の早い時期から朝鮮半島とは密接な関係があり、中国へもたびたび日本から使を派遣したことが中国の『後漢書』『魏志(ぎし)』などに記録されている。5世紀ころには日本でも漢字の学習が盛んになったことは、各地の古墳から出土する鏡や埼玉県稲荷山(いなりやま)古墳出土の太刀(たち)の象眼(ぞうがん)銘、「宇治橋断碑(うじばしだんぴ)」などの古碑、「法隆寺薬師光背銘(ほうりゅうじやくしこうはいのめい)」などから想定することができる。
 6世紀になると漢字・漢文の学習が本格的になり、607年(推古天皇15)聖徳太子は小野妹子(おののいもこ)を隋(ずい)に派遣して、中国文化を直接日本に取り入れた。これより仏典も輸入され、墨・紙・筆の製法も伝えられた。聖徳太子の真筆とされる『法華義疏(ほっけぎしょ)』は、現存する最古の肉筆の書としてきわめて重要である。こうした日本の書の黎明(れいめい)期は六朝(りくちょう)風の影響を強く受けている。
 奈良時代(710~783)は7代約70年続くが、この間に中国では隋が滅びたのち唐が大陸を支配し、長い安定期に入る。わが国は唐と修交を続け、前後6回にわたる遣唐使の派遣によって、唐都長安の流行がそのまま伝わり、唐の文物制度がほとんど採用された。唐の書家の名跡や、王羲之(おうぎし)、王献之らの精妙な模本も入って、当時の人々が直接それらを学習していることは注目に値する。日本人の手になる唐風の優れた書として、聖武(しょうむ)天皇の宸翰(しんかん)『雑集(ざっしゅう)』、光明(こうみょう)皇后の臨書『楽毅論(がっきろん)』『杜家立成雑書要略(とかりっせいざっしょようりゃく)』などがあり、これらは整然とした楷・行書で書かれていて、唐の専門家の書と比べても遜色(そんしょく)がない。
 飛鳥(あすか)時代に渡来した仏教は、天平(てんぴょう)年間(729~749)国をあげて信仰されるようになり、国立の大規模な写経所が設けられ、仏教にかかわる文物が多く残された。なかでも写経は書の遺品としてもきわめて重要である。「正倉院文書(もんじょ)」とよばれる約2万点の古文書のなかには、写経生が王羲之の書を手本として習字した落書きが残されている。また同文書の一つである『東大寺献物帳』によれば、20巻に及ぶ王羲之の臨書があったことが記されており、当時、王羲之の書法がもっとも珍重されていたことがわかる。[小松茂美]
和様書道の開花
平安時代は日本における書の一つの頂点をなす時代である。その初期は前代に続いて唐文化の移植が盛んに行われ、弘法(こうぼう)大師空海(くうかい)や伝教(でんぎょう)大師最澄(さいちょう)、橘逸勢(たちばなのはやなり)らが入唐(にっとう)して晋(しん)・唐の書風を会得し帰国したが、その際、仏画・仏具とともに唐の書家の筆跡類も持ち帰った。空海はこの時代の能書の代表的存在で、最澄にあてた手紙『風信帖(ふうしんじょう)』、『三十帖冊子』は王羲之風を基調とした重厚端麗な書体で書かれ、後世に深い感化を及ぼした。また詩文に長じた嵯峨(さが)天皇は空海について書を学び、『光定戒牒(こうじょうかいちょう)』などの雄渾(ゆうこん)な書を、橘逸勢は『伊都(いと)内親王願文(がんもん)』で唐風の行書を残している。この空海、逸勢、嵯峨天皇の3人を後世「三筆(さんぴつ)」とよんだ。このほかにも、空海とともに入唐した天台宗の開祖最澄(『久隔帖(きゅうかくじょう)』など)、藤原敏行(としゆき)(『神護寺鐘銘』など)は唐代最高の書法を今日に伝えている。
 平安中期になると、盛大な唐も衰運に傾き、宇多(うだ)天皇の寛平(かんぴょう)6年(894)菅原道真(すがわらのみちざね)の進言によって遣唐使が停止されると、和様の書がおこり、日本独自の書芸術を高めていった。10世紀に小野道風(おののとうふう)(『屏風土代(びょうぶどだい)』『玉泉帖(ぎょくせんじょう)』など)は王羲之から出発した雄渾豊麗な草書で古今に優れ、藤原佐理(すけまさ)(『詩懐紙(しかいし)』『離洛帖(りらくじょう)』など)は唐様(からよう)を離れて自由奔放な筆跡を残し、藤原行成(ゆきなり)(『白氏詩巻』など)は、官は権大納言(ごんだいなごん)に進み、流麗な書風で世尊寺(せそんじ)流の祖となった。この3人の書は野蹟(やせき)、佐蹟(させき)、権蹟(ごんせき)とよばれ、いわゆる「三蹟(さんせき)」として、前期の三筆とともに日本書道の黄金期を築いた。
 中国から渡来した漢字は書写や記録に便利だったが、日本語で情感や思想を表現するには表記上、無理があった。そこで、漢字の音(おん)だけを借用して一字一音式に国語を書き出すくふうがなされ、『万葉集』のような和歌を詠む場合に用いた。これを後世「万葉仮名(まんようがな)」といい、楷書で書かれたので真仮名(まがな)という。これを草書体で書いたものを草仮名(そうがな)といい、さらに大胆に書き崩したのが女手(おんなで)という書体になった。女手とは、男子は漢字を学ぶ必要から楷・行書を主としたので男手(おのこで)というのに対し、漢字の知識に乏しい女性専用文字という意味であったが、実際には男性も用い、のちに女手は平仮名(ひらがな)とよばれるようになった。紀貫之(きのつらゆき)は『土佐日記』の冒頭、「男もすなる日記というものを女もしてみんとて」と女性作者になりすまして書いているように、女手すなわち仮名で歌や文章を綴(つづ)ることがこのころから盛んになった。貫之は『古今和歌集』の撰者(せんじゃ)の一人として仮名書きの序文を書いているが、漢詩漢文学の衰退にかわって和歌が大流行し、貴族社会の日常教養に不可欠のものとなった。新しい日本文字である仮名は書道に革命をもたらした。多くの能書家が出て競い合い、漢字と調和した気品高く情趣ある、いわゆる上代様(じょうだいよう)とよばれる仮名書きの和様書道が完成、優れた作品を生んだ。平安前期の仮名の代表的作品『寸松庵色紙(すんしょうあんしきし)』(伝紀貫之)、『継色紙(つぎしきし)』(伝小野道風)、『升色紙(ますしきし)』(伝藤原行成)は、散らし書きの構図のなかに仮名の感覚的な美を盛り込んでいる。
 平安中期から鎌倉前期まで、10世紀から13世紀ころまでに書かれた仮名書きの作品(多くは和歌集)を古筆(こひつ)とよんでいる。古筆のもとの形は、1冊の冊子本か1巻の巻物であったが、のちに近世初期に茶の湯が盛んになり、茶室の掛物に使われるようになって、これらの冊子や巻物は一紙、半紙に切断されて多くの断簡となり、これらは「切(きれ)」といって諸家に愛蔵された。有名なものに『貫之自家集切』、3種の異なった筆跡を含む『高野切(こうやぎれ)』(古今和歌集断簡)、『石山切(いしやまぎれ)』などがあり、筆者はほとんど推測の域を出ないが、当時能筆家として名が高かった紀貫之、藤原公任(きんとう)、藤原行成らの名があげられてきたが、なかには研究の結果、源兼行(かねゆき)、藤原伊房(これふさ)、藤原基俊(もととし)、藤原定信(さだのぶ)らの真蹟が確認されている。
 仮名書きの華麗な書風は料紙の工芸美を生み、染紙(そめがみ)、唐紙(からかみ)、雲紙(くもがみ)、墨流しなどの美しく加工した紙が用いられた。唐紙はもと中国から渡来したものだが、平安時代になると国産品の美しい唐紙を生産した。これは、胡粉(ごふん)を刷(は)いた地に、雲母(うんも)で文様をすり出したものである。なかでも平安後期の傑作『本願寺本三十六人集』(1112年ころ書写)は20人ほどの能書家の分担執筆、いわゆる寄合書(よりあいがき)であるが、唐紙のほかにいろいろの紙を用い、それを、破り継ぎ、切り継ぎ、重ね継ぎなど精巧な継紙(つぎがみ)の技法を凝らして変化をつけ、なおその上に装飾下絵(そうしょくしたえ)や金銀の箔(はく)を散らして料紙の艶麗(えんれい)変化の妙を尽くしている。こうした料紙の工芸美は仮名ばかりでなく、写経にまで及び、『平家納経(へいけのうきょう)』『久能寺経(くのうじきょう)』『扇面法華経(せんめんほけきょう)冊子』などの装飾経にも及んだ。[小松茂美]
書道流派の発生
平安末期から鎌倉時代にかけて貴族階級の衰微と武家階級の台頭という社会現象に伴い、仮名書道は概して振るわなくなった。藤原忠通(ただみち)は粘りのある重厚な書をかき、後世、法性寺(ほっしょうじ)流とよばれた。『千載和歌集』の撰者として知られる藤原俊成(しゅんぜい)は鋭い筆致をみせながら奇癖に富んだ独特の書風をたて、のちに俊成流とよばれた。その子定家(ていか)は『新古今和歌集』を撰し、いわゆる定家流とよばれる書風をおこした。平安朝の能書家藤原行成の子孫は世尊寺流を継いで、宮廷の右筆(ゆうひつ)として書道界の中心勢力となったが、鎌倉末期には世尊寺流の流れをくむ伏見(ふしみ)天皇の皇子尊円(そんえん)親王の青蓮院(しょうれんいん)流が広まった。これは御家(おいえ)流として室町~江戸時代を通じて幕府・朝廷の公私の文書の標準書体に用いられ、一般にも個性のない低俗な書体として流布した。このように世襲による書法の伝統を伝える努力もあったが、いたずらに因襲的な様式を授受するにとどまった。
 当時ややもすれば沈滞ぎみであった鎌倉期の書道に清新の気を吹き込んだものは、禅僧によって中国から移入された宋(そう)・元(げん)の書道である。鎌倉時代には大陸との交流が復活し、栄西(えいさい)、道元(どうげん)、俊らは入宋(にっそう)して、当時の新興仏教であった禅宗を日本に伝えるとともに、蘇東坡(そとうば)や黄庭堅らの書風を紹介し、また中国から蘭渓道隆(らんけいどうりゅう)(建長寺開山)、無学祖元(むがくそげん)(円覚(えんがく)寺開山)、一山一寧(いっさんいちねい)ら高僧が相次いで来朝帰化した。禅宗の簡素で剛直な精神と生活態度は武士階級の共感をよび、京都、鎌倉を中心に崇敬された。これら禅僧の書は技法を超えた破格法外の書として尊ばれ、墨跡とよばれる。清雅な草書に優れた夢窓国師(むそうこくし)、気宇雄大な大燈(だいとう)国師の遺墨はこの時代の代表的なものといえる。禅僧以外では日蓮(にちれん)が気概、品格ともに優れた書を残している。
 墨跡の影響は天皇や公卿(くぎょう)にも及んで、宸翰様(しんかんよう)とよばれる気品ある独特の書風を生んだ。後深草(ごふかくさ)、伏見(ふしみ)、花園(はなぞの)、亀山(かめやま)、後宇多(ごうだ)、後醍醐(ごだいご)ら歴代天皇はいずれも従来の宮廷の和様書道にない宋風の影響を受けた書を残した。ことに伏見天皇は歴朝中屈指の能書帝として名高く、後醍醐天皇は力に満ちた覇気あふれる書を残し注目される。
 室町時代は戦乱相次ぎ、書道は和漢ともに低調であったが、東福寺の了庵桂悟(りょうあんけいご)は明(みん)に留学して王陽明と交わった。大徳寺の一休宗純(いっきゅうそうじゅん)は豪放な書を残し、圜悟(えんご)禅師の墨跡を茶道の祖村田珠光(じゅこう)に与えたが、これより茶道で禅僧の墨跡を重んずる風がおこり、墨跡といえばただちに禅僧の書をさすようになった。またこの時代に懐紙、色紙、短冊(たんざく)などの使用が盛んとなり、やがてそれらの寸法が規格化され、料紙や書式が整った。[小松茂美]
和様の再興と唐様の展開
打ち続く戦乱を経て天下は統一され、迎えた江戸時代(1603~1867)は革新の気がみなぎり、久しく沈滞していた和様書道も活気を呈し、近衛信尹(このえのぶただ)、本阿弥光悦(ほんあみこうえつ)、松花堂昭乗(しょうかどうしょうじょう)のいわゆる「寛永(かんえい)の三筆」が出て、ともに伝統を破って新しい書風を樹立した。とくに本阿弥光悦は絵画、工芸の分野でもたぐいのない創造性をもって新境地を開いた。烏丸光広(からすまみつひろ)は歌人としても有名で、初め光悦に書を学び、一時は定家流に傾いたが、のち自由奔放な性格そのままに闊達(かったつ)な独自の書風を展開した。
 一方、禅宗の一派である黄檗(おうばく)宗の僧たちによって明(みん)との交流が盛んになり、唐様(からよう)の書も新たな展開をみせた。
 4代将軍徳川家綱のとき、1654年(承応3)隠元(いんげん)が明から来朝帰化し、宇治に黄檗山万福寺(まんぷくじ)を建てたが、その穏和な書は人柄とともに世に親しまれ、同じころ来朝した独立(どくりゅう)は本国においてすでに書名が高く、草書に巧みであった。こうして明の書風が伝えられると、気迫に富む唐様の書が流行し、北島雪山(せつざん)は長崎で明の文徴明(ぶんちょうめい)の技法を研究して江戸時代における唐様の先駆者となった。雪山の門下、細井広沢(こうたく)は師より相伝の執筆法を著し、江戸に唐様を広めた。広沢の『西湖十景』(東京国立博物館)は明の張寧(ちょうねい)の詩を楷・行・草・隷・篆(てん)の各体に書き分けたものである。江戸中期には長崎を門戸として、中国の法帖、碑拓や文献が舶来し、それらの翻刻によりわが国の唐様は一段と活気を呈した。幕末、江戸では市河米庵(いちかわべいあん)は宋の米に心酔し、書学の基礎に詳しく多くの著述を残した。京都では貫名菘翁(ぬきなすうおう)(海屋(かいおく))がわが国に古くから伝わる唐時代の書跡に注目し、格調の高い唐様の書を完成した。巻菱湖(まきりょうこ)は晋・唐の書を尊び、書体の源流を研究し、平明な書をかいた。この3人を「幕末の三筆」という。
 これら専門の書家以外に文人墨客の書にもみるべきものが多い。江戸時代は文人趣味が流行したが、これは中国の明・清(しん)時代の文人墨客に倣って詩・書・画を重んじ、時流には超然として、教養や個性的な人間性を表現したものである。越後(えちご)の人良寛(りょうかん)は王羲之、懐素を研究し、また小野道風の『秋萩帖(あきはぎじょう)』を習得して超脱自在の書境に至り、池大雅(いけのたいが)も超俗の書画を残した。このほか与謝蕪村(よさぶそん)、田能村竹田(たのむらちくでん)、大窪詩仏(おおくぼしぶつ)らがおり、頼山陽(らいさんよう)は米に傾倒して個性の強い書を残した。
 和様の書は江戸初期には活気もあり、それらの法帖もつくられて流布したが、その後流派を守るに汲々(きゅうきゅう)として低調であった。後期はわずかに加藤千蔭(ちかげ)、村田春海(はるみ)、香川景樹(かげき)らの歌人の書を数えるにすぎない。江戸時代は唐様の影響で行・草書が流行し、そうした時代を反映して書体字典が盛んに刊行された。行書字典の『行書類纂(るいさん)』(関克明選集)、草書字典の『草露貫珠(かんしゅ)』(水戸彰考館編)など数多く刊行されている。[小松茂美]
現代書道の流れと展望
明治以後も唐様の流派はなお勢力を保っていたが、1880年(明治13)清の学者楊守敬(ようしゅけい)が1万点余の漢・魏・六朝・隋・唐の拓本を携えて来朝した。これまでわが国でみることのなかった5、6世紀ころの北魏を中心とする碑法帖は書道界に多大の刺激を与え、楊守敬の指導を受けた日下部鳴鶴(くさかべめいかく)、巌谷一六(いわやいちろく)は書道界に新風を巻き起こした。ことに鳴鶴は門人の育成に努め、その流派は一時全国を風靡(ふうび)した。また中林梧竹(なかばやしごちく)は中国に渡って楊守敬の師の潘存(はんそん)に直接師事し、漢・魏・六朝の書法を研究して帰国し、芸術的な作品を発表して注目された。このほか西川春洞(しゅんどう)、中村不折(ふせつ)、俳人の河東碧梧桐(かわひがしへきごとう)らも六朝風の書家として知られる。中国では清末、篆・隷とあわせて篆刻に長じた書家が多いが、その影響で明治以後の書家で篆刻をよくする円山大迂(まるやまだいう)、桑名鉄城(てつじょう)、浜村蔵六(ぞうろく)5世らが出た。
 和様の書では、当時の極端な欧化主義に反発して大口周魚(おおぐちしゅうぎょ)、多田親愛(しんあい)に次いで田中親美(しんび)らが古筆を研究し、阪正臣(ばんまさおみ)、小野鵞堂(がどう)らの温和な書風が一時流行したが、のちに尾上柴舟(おのえさいしゅう)、吉沢義則(よしざわよしのり)が出て上代様の仮名を唱えた。また画家の吉川霊華(きっかわれいか)は孤高の存在を示した。
 日下部鳴鶴の弟子比田井天来(ひだいてんらい)は師風に追随せず、碑法帖や木簡を研究し、古典美のなかから心象表現としての書の現代美を追究して新境地を開いた。彼は弟子にも独自の道を歩ませ、門下から多くの前衛作家を出した。
 明治以来、学校教育が急速に普及し、習字が教科に組み入れられて書道塾も盛んになった。これとともに各種の書道団体が結成された。1924年(大正13)の日本書道作振会をはじめとし、泰東書道院、東方書道会、大日本書道院その他ができ、条幅のような大作を素人(しろうと)も書くようになり、書家はその技量を展覧会の大作で競うようになった。第二次世界大戦後は書も動揺混乱の時期があったが、まもなく再興し、毎日書道展、日展の権威ある書道展のほかに大小の書道展が催され、書はもはや書斎や教場のものではなく、展覧会作品を中心として、一般にも鑑賞されるようになった。戦後多くの著名作家が輩出したが、豊道春海(ぶんどうしゅんかい)、鈴木翠軒(すいけん)、安東聖空(あんどうせいくう)、西川寧(やすし)、手島右卿(てじまゆうけい)、日比野五鳳(ひびのごほう)らは文化功労者に選ばれ、ことに日比野は仮名の作品に独自の境地を開いた。一方、書のブームにのって書道塾も空前の盛況をみせている。[小松茂美]
墨象
戦後の一つの傾向として、従来のような詩文を書き連ねることに飽き足らず、保守・伝統に反抗して、文字をかかない書の「前衛書道」または「墨象」とよばれる書芸術がおこった。読むことができない草書や行書の詩文や変体仮名よりは、抽象絵画と同じく表現主義的な立場から、自由に書に造形美を求めるべきだとして、上田桑鳩(そうきゅう)、井上有一(ゆういち)、宇野雪村(せっそん)、森田子龍(しりゅう)、篠田桃紅(しのだとうこう)らの作家が出た。前衛書道は書とは認めがたいとする人もいるが、彼らの大胆な試行提言は、保守的な書道に反省を促し、近代化に役だち、欧米の注目を集めたことは否めない。[小松茂美]
『『書道全集』26巻・別巻2(1954~68・平凡社) ▽中田勇次郎編『書道芸術』20巻・別巻4(1975~77) ▽伏見冲敬著『書の歴史――中国篇』(1960・二玄社) ▽伏見冲敬編『書道大字典』全2巻(1974・角川書店) ▽小松茂美著『書のみかた――型と美』(1982・第一法規出版) ▽上条信山編著『現代書道全書』全5巻(改訂新版・1979・小学館) ▽小松茂美著『展望日本書道史』(1986・中央公論社)』

出典|小学館 日本大百科全書(ニッポニカ) この辞書の凡例を見る
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