木曾川上流域森林地帯の古称。現在の長野県木曾郡(1968年西筑摩郡を改称)全域は,西の御嶽山(おんたけさん),東の木曾山脈に囲まれ,面積の約95%を山林が占め,〈木曾檜(ひのき)〉は日本三大美林の一つとして知られる。
《続日本紀》大宝2年(702)条,和銅6年(713)条に美濃の国司が〈吉蘇(きそ)〉路を切り開いた記事が見えるが,これによって木曾と畿内近国とが結ばれ,木曾山林の開発が緒につくにつれて,美濃・信濃両国が争奪を繰り返すようになったため,879年(元慶3)美濃国恵那郡の所属とされた(《日本三代実録》)。畿内近国の山林の濫採にともない,平安中期ごろから内装材や器物用材など人馬によって搬出可能な軽量ヒノキの供給地として注目されはじめ,やがて木曾の北辺に小木曾荘が成立した。荘園制時代から木曾山で生産されたヒノキ材は,ヒノキの大径木を適当な長さに輪切り,これを蜜柑割りにして製造する〈白木〉類であった。年貢代りに定納させる白木の生産が領民の無給労役によったことは,南北朝時代の高山寺領小木曾荘,〈後の木曾氏〉の支配時代から尾張藩前期に至るまで本質的に変りない木曾の税制であった。1590年(天正18)木曾氏に代わった豊臣秀吉の領有時代には,木曾28ヵ村から1600石ほどの米年貢代りに榑木(くれき)26万8000余挺と土井4350余駄を定納させたが,この年貢に数倍する白木を生産移出した。しかし建築主材の良大材を採出して木曾川を大量流送するようになるのは,江戸・駿府の築城が開始される1606年(慶長11)ごろからで,その後城下町の造営がほぼ一段落する60年(万治3)ごろまでに木曾山から採運された用材の平均年産量は150万石(1石=10立方尺)前後にのぼった。1600年徳川家康が木曾氏の旧臣山村甚兵衛を代官として福島に置いて以来,15年(元和1)木曾が尾張藩に加封された後も,木曾山の管理と木材の採運支配の役に任じていたが,65年(寛文5)尾張藩の林政改革によって経営が尾張藩の直轄に移され,藩は留山(とめやま)を指定して資源の保存を図った。1702年(元禄15),元禄国絵図によって木曾は信濃国筑摩郡の所属と決定した。1869年(明治2)版籍奉還の際,木曾山は尾張藩から上地され,71年官林,89年帝室御料林,1947年国有林となった。
→木曾谷
執筆者:所 三男
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
…役所は西浜御殿に隣接。藩領木曾山から流送の材木を管理・保管する白鳥材木役所・材木場,船奉行役所や船番所も所在。浜には伊勢国桑名にいたる七里渡の船着場があり,1625年(寛永2)航海の安全のため常夜灯が築かれた。…
…地形的には鳥居峠以南~岐阜県境付近までの木曾川に沿う谷をさすが,歴史的には旧中山道の一部である木曾路の経路をさすことが多い。長さは約60kmに及ぶが,谷の南東には木曾山脈(中央アルプス),北西には飛驒山脈(北アルプス)や御嶽(おんたけ)山などがそびえてV字谷をなし,幅は大部分が数百mと狭い。国道19号線(中山道),JR中央本線などの交通路が貫通しており,木曾福島,上松(あげまつ)など主要集落は旧中山道時代の宿場町から発達したものである。…
※「木曾山」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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