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本居内遠 もとおり うちとお

デジタル大辞泉の解説

もとおり‐うちとお〔もとをりうちとほ〕【本居内遠】

[1792~1855]江戸後期の国学者。名古屋の人。号、榛園(はりぞの)。豊穎(とよかい)の父。本居大平の養子となり、紀州侯に仕えた。著「落葉の錦」など。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説

本居内遠 もとおり-うちとお

1792-1855 江戸時代後期の国学者。
寛政4年2月23日生まれ。本居大平(おおひら)にまなび,その3女藤子の婿となって本居家をつぐ。和歌山藩につかえ,養父の跡をついで「紀伊(きい)続風土記」の編述にあたった。安政2年10月4日死去。64歳。尾張(おわり)(愛知県)出身。本姓は浜田。初名は高国。通称は弥四郎など。号は木綿垣(ゆうがき),榛園。著作に「古学本教大意」など。

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朝日日本歴史人物事典の解説

本居内遠

没年:安政2.10.4(1855.11.13)
生年:寛政4.2.23(1792.3.15)
江戸後期の国学者。尾張名古屋の浜田孝祖の子。幼名浜田鎌次郎,通称久次郎,安次郎,弥四郎。号高国,秋津。別号を木綿垣,榛園。幼少より謡曲,算術,茶道,剣法,柔術など広く学び才能を発揮,15歳のとき清水忠美の誘いで本居宣長の著述を読み始め,18歳のとき植松有信の『源氏物語』講読を聞く。24歳,鈴木朖 の『古事記』講義を聞き,27歳,市岡猛彦に入門,28歳のとき,江戸に遊学して清水浜臣ら国学者や石川雅望ら戯作者と交わった。29歳の文政3(1820)年,本居大平に入門。天保2(1831)年,40歳のとき,本居大平の養子となり内遠と改めた。紀州(和歌山)藩主徳川斉順に仕え,命によって『紀伊続風土記』(1839)を選定した。嘉永4(1851)年より藩の神道学問所において講義した。安政1(1854)年,江戸藩邸内の古学館教授となったが,翌年江戸で没した。

(飯倉洋一)

出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報

世界大百科事典 第2版の解説

もとおりうちとお【本居内遠】

1792‐1855(寛政4‐安政2)
江戸後期の国学者。もと浜田高国といい,尾張の人。通称は弥四郎。木綿垣(ゆふがき),榛園(はりのきえん)などと号した。本居大平(おおひら)の女婿となり,のち家督を継いで紀州徳川家に仕える。藩命により《紀伊続風土記》《新撰紀伊国名所和歌集》の編纂に従事,晩年は古学館教授として江戸藩邸に赴任した。著述も多く,《賤者考》《本宮神社考定》《条理図帳考》《田租度量考》など,考証類に見るべきものが多い。【鈴木 淳】

出典 株式会社日立ソリューションズ・クリエイト世界大百科事典 第2版について 情報

大辞林 第三版の解説

もとおりうちとお【本居内遠】

1792~1855) 江戸後期の国学者。名古屋の人。号、木綿垣ゆうがき・榛園など。豊穎とよかいの父。本居大平について国学を学び、のちその養子となる。考証を主とした学風で、紀州侯に仕え「紀伊国続風土記」などの編纂へんさんに従事した。著「古学本教大意」など。

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367日誕生日大事典の解説

本居内遠 (もとおりうちとお)

生年月日:1792年2月23日
江戸時代末期の国学者
1855年没

出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報

世界大百科事典内の本居内遠の言及

【賤者考】より

本居内遠(もとおりうちとお)の制度考証書。1冊。…

【中山美石】より

…名古屋の書肆万巻屋の息子浜田孝国を大平の養子に斡旋した。彼が後の本居内遠(うちとお)である。編著は《後撰和歌集新抄》。…

※「本居内遠」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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