中国,西夏第1代の皇帝。諡(おくりな)は武烈。廟号は景宗。性雄毅にして智謀にたけ,河西ウイグルを破って甘州,涼州を攻略,瓜・沙・粛3州をとる。父李徳明の死後,西平王の位を継ぐと(1032),旺盛な独立意識をもって建国に着手し,興州に都をおいて興慶府と改め(今の寧夏回族自治区銀川市),宋制にならって文武の官制をたて,また兵制を定めて十二監軍司などの軍名をつくった。一方,礼楽を定め,蕃・漢二字院を設けたが,李元昊は西夏文字の創造に独立意識をもやし,文字公布の広運3年を記念して年号を大慶元年(1036)に改めた。1038年皇帝を称し,国を大夏と号して対宋独立を宣言した(宋から見ると北西にあたるため宋では西夏と呼んだ)。これより宋・夏の抗戦は激化し,夏軍はしばしば勝利したが,連年の戦いに損害は大きく,44年にいたって臣礼をとり,宋は銀,絹,茶を歳賜として与え,互市を許した。しかし独立国としての実に変りなく,領域は拡大し,西夏国200年の礎はここにゆるぎないものとなった。
執筆者:岡崎 精郎
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西夏国初代の皇帝(在位1032~48)。廟号(びょうごう)は景宗。太宗李徳明の長子として生まれ、創造の才に富み、兵法、法律に詳しく、仏学にも通じた。1032年、李徳明の死後、西平王の位を継ぐと、姓を嵬名(ぎめい)と改め、吾祖(西夏語で皇帝の意)と称し宋(そう)に対抗した。国都の興州を興慶府(寧夏(ねいか)回族自治区銀川市)と改め、政治、軍事の中心とし、国名を大夏とした。早くから河西地域への進出を目ざし、前後して瓜(か)州、沙(さ)州、粛(しゅく)州を占拠し、河西回廊全部を手中に収め、西夏国の基礎を固めた。軍事的にまれにみる英傑であるのみならず、政治のうえでも新興国家の建設者として優れ、文化政策にも有能な才幹を示した。
[西田龍雄]
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
1003~48(在位1038~48)
西夏の初代皇帝。廟号は景宗。1035年頃河西を攻略。父李徳明(りとくめい)の死後,平西王となり,興慶府(こうけいふ)(銀川)を首都として官制,兵制を整えた。1038年に皇帝を称し,国号を大夏(たいか)として宋,遼に対抗した。文化的素養が高く,西夏文字の創成にもかかわった。
出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報
出典 旺文社世界史事典 三訂版旺文社世界史事典 三訂版について 情報
…さらに河西へ進出して河西ウイグルの商業貿易権を奪取せんとしたが,これには河西ウイグル自身の抵抗はもとより,同様に河西進出をねらう遼の妨害工作があったうえに,湟水(こうすい)流域(青海省西部)には唃厮囉(こくしら)のもとに統合された青唐吐蕃が反抗を示した。しかしこれらの障害を排除しつつ,河西経略が進められて,その子,李元昊(りげんこう)にひきつがれた。李元昊は河西各地を収めたのち,独立意識に燃えて国家建設に着手し,興州を興慶府と改めて都とし(現在の寧夏回族自治区銀川市),宋制にならって文武の官制をたて,年号をたて,兵制を定めて十二監軍司などを設けて防衛を固めた。…
※「李元昊」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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