李元昊(読み)リゲンコウ(英語表記)Lǐ Yuán hào

デジタル大辞泉 「李元昊」の意味・読み・例文・類語

り‐げんこう〔‐ゲンカウ〕【李元昊】

[1004~1048]中国、西夏の初代皇帝在位1032~1048。廟号びょうごうは景宗。1038年建国国号を大夏と称した。に対抗し、官制兵制を整え、文化向上にも努めた。

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精選版 日本国語大辞典 「李元昊」の意味・読み・例文・類語

り‐げんこう‥ゲンカウ【李元昊】

  1. 中国、西夏の初代皇帝(在位一〇三八‐四八)。廟号は景宗。太宗李徳明長子。父の死後、西平王の位を継ぎ、一〇三八年、皇帝を称し国号を大夏とした。宋、遼二国に対抗し、西夏文字制定、官制・軍備整備などに尽くした。(一〇〇三‐四八

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改訂新版 世界大百科事典 「李元昊」の意味・わかりやすい解説

李元昊 (りげんこう)
Lǐ Yuán hào
生没年:1003-48

中国,西夏第1代の皇帝。諡(おくりな)は武烈。廟号は景宗。性雄毅にして智謀にたけ,河西ウイグルを破って甘州,涼州を攻略,瓜・沙・粛3州をとる。父李徳明の死後,西平王の位を継ぐと(1032),旺盛な独立意識をもって建国に着手し,興州に都をおいて興慶府と改め(今の寧夏回族自治区銀川市),宋制にならって文武の官制をたて,また兵制を定めて十二監軍司などの軍名をつくった。一方,礼楽を定め,蕃・漢二字院を設けたが,李元昊は西夏文字の創造に独立意識をもやし,文字公布の広運3年を記念して年号を大慶元年(1036)に改めた。1038年皇帝を称し,国を大夏と号して対宋独立を宣言した(宋から見ると北西にあたるため宋では西夏と呼んだ)。これより宋・夏の抗戦は激化し,夏軍はしばしば勝利したが,連年の戦いに損害は大きく,44年にいたって臣礼をとり,宋は銀,絹,茶を歳賜として与え,互市を許した。しかし独立国としての実に変りなく,領域は拡大し,西夏国200年の礎はここにゆるぎないものとなった。
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日本大百科全書(ニッポニカ) 「李元昊」の意味・わかりやすい解説

李元昊
りげんこう
(1004―1048)

西夏国初代の皇帝(在位1032~48)。廟号(びょうごう)は景宗。太宗李徳明の長子として生まれ、創造の才に富み、兵法、法律に詳しく、仏学にも通じた。1032年、李徳明の死後、西平王の位を継ぐと、姓を嵬名(ぎめい)と改め、吾祖(西夏語で皇帝の意)と称し宋(そう)に対抗した。国都の興州を興慶府(寧夏(ねいか)回族自治区銀川市)と改め、政治、軍事の中心とし、国名を大夏とした。早くから河西地域への進出を目ざし、前後して瓜(か)州、沙(さ)州、粛(しゅく)州を占拠し、河西回廊全部を手中に収め、西夏国の基礎を固めた。軍事的にまれにみる英傑であるのみならず、政治のうえでも新興国家の建設者として優れ、文化政策にも有能な才幹を示した。

[西田龍雄]


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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「李元昊」の意味・わかりやすい解説

李元昊
りげんこう
Li Yuan-hao; Li Yüan-hao

[生]1003
[没]1048
中国,西夏国第1代の皇帝 (在位 1032~48) 。別名,曩霄 (のうしょう) 。諡,武烈。廟号,景宗。李徳明の子。甘州をウイグルから奪い,1032年父の死後西平王の位を継いだが,対宋独立の意志をもっていたので,中国風の文武の官制,服式を定め,開運と改元し,18州をおき,興慶州 (寧夏) を府と改めて首都とし,皇帝と称して国号を大夏とし (38) ,宋に独立を伝えた。宋の仁宗は元昊の官爵を削り互市貿易を絶ち,両国の戦争は激化した。そのため国家は疲弊し,結局元昊は宋に臣礼をとり,宋は彼に歳賜を与えるという条件で講和が成立し (44) ,宋から夏国王に封じられた。

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山川 世界史小辞典 改訂新版 「李元昊」の解説

李元昊(りげんこう)
Li Yuanhao

1003~48(在位1038~48)

西夏の初代皇帝。廟号は景宗。1035年頃河西を攻略。父李徳明(りとくめい)の死後,平西王となり,興慶府(こうけいふ)(銀川)を首都として官制,兵制を整えた。1038年に皇帝を称し,国号を大夏(たいか)としてに対抗した。文化的素養が高く,西夏文字の創成にもかかわった。

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旺文社世界史事典 三訂版 「李元昊」の解説

李 元昊
りげんこう

1003〜48
西夏 (せいか) の初代皇帝,景宗(在位1032〜48)
父のあとを継いでタングート族の王となり,国家体制を整備し,皇帝の位について大夏(中国では西夏と呼ぶ)と称した。軍制・地方制度を整え,よく宋・遼と対抗して自国の地位を強化。文化の向上にもつとめ,学校をおこし,中国の書物を翻訳させ,独特の西夏文字を創った。

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世界大百科事典(旧版)内の李元昊の言及

【西夏】より

…さらに河西へ進出して河西ウイグルの商業貿易権を奪取せんとしたが,これには河西ウイグル自身の抵抗はもとより,同様に河西進出をねらう遼の妨害工作があったうえに,湟水(こうすい)流域(青海省西部)には唃厮囉(こくしら)のもとに統合された青唐吐蕃が反抗を示した。しかしこれらの障害を排除しつつ,河西経略が進められて,その子,李元昊(りげんこう)にひきつがれた。李元昊は河西各地を収めたのち,独立意識に燃えて国家建設に着手し,興州を興慶府と改めて都とし(現在の寧夏回族自治区銀川市),宋制にならって文武の官制をたて,年号をたて,兵制を定めて十二監軍司などを設けて防衛を固めた。…

※「李元昊」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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